全体主義的システムの周到さにいまさら驚くディストピア小説『一九八四年』(ジョージ・オーウェル)
訳者あとがき曰く、英国での「読んだふり本」第一位が本作らしい。漫画版の『村上春樹の「螢」・オーウェルの「一九八四年」』を最近読んだものの、小説の方は学生時代に図書室で読んだ程度で、記憶もおぼろげ。
たしかにビッグ・ブラザーだとかキーワードさえ知っていれば「読んだふり」はできそう。ドキッとして笑ってしまいました。
さて、舞台はビッグ・ブラザー率いる党が支配する全体主義的近未来(1984年)。主人公ウィストン・スミスはテレスクリーンの視界から逃れ、非合法とされている日記を開く。書き始めた瞬間から自らの運命を背負うことになり…さあどうなるか。
全体主義的システムの周到さ
小説版であらためて感じたのは、作中の全体主義的システムの周到さ。
当局の最大の関心は「権力」であり、徹底的なファシズムが敷かれています。すべての民を服従させるように組み込みますが、システムが続けば反対勢力が出てくることは容易に想像できます。
そこでゴールドスタイン(おそらく虚構)という反対勢力の核となる人物を糾弾する「二分間憎悪」コーナーによるガス抜きはもちろん、異端者をあえて泳がせるようなタレブの反脆弱性的な工夫が見受けられます。
ウィンストンは、まさにそこに引っかかる。
誘惑、裏切り、保護そして破滅。異端者はスパイに出し抜かれ、そして当局は彼らを服従させる快感をそこで味わう。だから退屈しない。
異端者の存在が織り込み済みのシステムでは、その快感が生まれるたびに権力構造がさらに強固なものになるという皮肉。恐ろしい。
ある人物は、こう言う。
権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。権力とは人間の精神をずたずたにし、その後で新手馬手、こちらの思うがままの形に作り直すことなのだ。
二重思考という概念
そもそもなぜスパイが可能なのか。当局の人間でありながら、隠し通すし、ポーズだとしてもいったんは党の打倒を掲げるわけです。ここで重要な概念が二重思考です。
二重思考とは、ふたつの相矛盾する信念を同時に抱き、その両方を受け入れる能力をいいます。かんたんにいえば自己矛盾を肯定させることで自らを納得させ、人を惑わし操ったりすることができます。
ウィンストンが働いていた「真理省」は「改竄作業」を行うし、「愛情省」は「尋問」を行います。あれ?現実世界でも「国防省」と名乗りながら…とかとか。日本だって、いや身近にもきっといろいろ転がっているでしょう。
前述した「二分間憎悪」ではこんなスローガンが提示されます。
無知は力
自由は隷属
戦争は平和
ニュースピークの諸原理
『華氏451度』では本を禁じることで国民の思考を狭めたように、本作では世の中に存在する言葉そのものを削り、思考を制限しようと試みます。
巻末附録によればA語彙群〜C語彙群まで分かれているのだけど、思ったのは形容詞の制限って「自分がその対象についてどう感じるか」という主観に関わってくるんだなと。言葉を間引くことで主観がガリガリと削られていく。
ウィトゲンシュタインが示す通り、言葉は世界を映し出す鏡であって、言葉がなければ可能性はない。逆説的にいえば、語彙を持つことの重要性が浮き彫りになります。
佐藤優氏は古典となる作品の条件に『「思想の先見性」つまり、時代を先取りしているか』を挙げていました。二重思考やニュースピークといった概念は、先見性と普遍性を持ったキーワードであり、小説を越えて影響をもたらした。
というわけで以上です!