『はじめての大拙』(鈴木大拙・大熊玄)を読んで
『はじめての⼤拙――鈴⽊⼤拙 ⾃然のままに⽣きていく⼀〇⼋の言葉』を読みました。
読んで、思い出したお話です。
禅で、恥いた思い出。
学生時代、急に禅というものを知りたくなり、「いざ、鎌倉へ」。禅宗といえば北鎌倉しかないと、たしか建仁寺で座禅を体験しました。
誰でも参加可能。パッと周りを見渡すと、意識の高そうなサラリーマン、座禅が日常の一部になっているようなパジャマ姿のおじいちゃん、あとちょっとユニークなかんじの人。バリエーション豊か、多種多様です。
もっとも驚いたのは「バシっ!」と叩かれるアレ、なんと座禅を組む本人の希望制だったんです。
*集中力の低下でカラダが動く
*お寺の方が自分の前に来る
*本人が頭を下げて合図する
*バシっ!
という着地。
抜き打ちテストかと思ってそのときは終始ビクビク状態。お寺の方が目の前まで来た!カラダの揺れは増すばかり。だけど、希望制とはつゆ知らず、グラングラン動く。
お寺の方は「あれ?こいつ合図よこさないぞ」と困惑。
謎の時間が過ぎ、お寺の方はあきらめてスルー。こちらは「いや、叩かないんかい!」と心のなかでツッコミあり様。なにやってんだ自分は…。
当時、心に雑念がいかにあったかをあらためて感じます。が、禅自体にはなんとなく関心を持ち続けています。
言葉には限界がある
禅には「不立文字」、つまり文字を立てず言葉を重用しない考え方があります。だからこそ、言葉にはならない前提で、言葉を尽くし、海外にもそれを伝えようとした偉人が鈴木大拙、こう認識しています。
「禅」や「日本的霊性」にいきたいのですが、ちょっとこわい。
さて、『はじめての大拙』です。
本書は、鈴木大拙の膨大な著書から、大事かつわかりやすい言葉を108キュレーションし、章立てで整理されています。鈴木大拙本人の文脈とは離れ、まずは感じようよというスタンス。
鈴木大拙を知るというよりも、大拙の言葉を味わえる一冊となっています。ちゃんと原著から引用しているところもポイント。
そもそも編集されて出来上がっているもので恐縮ですが、なかでも響いた箇所を3つほどクリップして終えます。
周辺のない円には無限の中心がある
禅は、円周のない円があると言う。つまりこの円は無限の中心を持つ。この円には【唯一の】中心がない。ゆえに一切処が中心である。
(中略)禅の見地からすれば、宇宙は円周のない円であり、われわれ一人一人が宇宙の中心である。『禅についての対話』
言葉で説明するほどに、「それ」が遠のいていく
言葉の説明は、それをいかに積み重ねようとも、われわれを自己の本性に導き入れてはくれない。説明すればするほど、それは遠のいていくばかりである。
ちょうど自分の影を捕らえようとするようなものである。あなたがそれを追えば、それは同じ速さで逃げてゆく。
俳句の理解は、禅の悟りにつながる
日本人の心の強味は最深の真理を直接的につかみ、表象を借りてこれをまざまざと現実的に表現することにある。この目的のために俳句は最も妥当な道具である。
(中略)日本人を知ることは俳句を理解することを意味し、俳句を理解することは禅宗の「悟り」体験と接触することになる。
いやー、おもしろい。サラッとふれられていたのですが、俳句と禅の関係性は初めて感じました。俳句ですかあ、知りたいな。
というわけで以上です!