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考えるって動的なんだ!『はじめて考えるときのように 「わかる」ための哲学的道案内』(野矢茂樹)

人は毎日数千・数万回の意思決定をしてるというけれど、それでは人はどれだけ考えているか?

そもそも考えるとは「うーん」と腕組みをして思索にふけっていることでしょうか。

いや、考えるってこういうことじゃないかな?と口語調で心にやさしく語りかけ、哲学の道にいざなってくれるのが本書です。

植田真さんのイラストレーションは挿絵を越えてもう一つのストーリーにも仕上がっています、ぜひ紙の本で読むのをオススメします。

つめこんで、ゆさぶって、空っぽにする

解釈したのは「考えるとは、動的なプロセスである」ということです。頭の中のイメージでの思考を想像するけれど、実際はもっと身体的で、外に開かれている。

まず対象となる問題・問い、その先にある解く・アルキメデスの「ヘウレーカ!」的な閃き。その間を観察や論理といった素材をうまく利用する、つまり「考える」によって埋めていく。

たとえば捨てたり、選んだり、つなげたり、もっと具体的にいえば手を動かしたり、紙の上に書いたり、冷蔵を覗いたり、気分転換に外を歩いたり、おしゃべりしたりするのもそう。

つまり考えるとは、そうした動作によって新たな関係、新たな意味を求めることである。編集的思考で何かをつなぎ合わせるのには時間を要します。

そこでブリコラージュやエポケー的にいったん「そのまま」にするのも大事。発酵にも近いのかも知れない。ちなみに論理の正しさとは、前提や結論の正しさとは異なるので要注意。

言葉あっての「考える」

ウィトゲンシュタインの名前こそ出てきませんが、道案内から見えてくるのは言葉は世界を映し出す鏡であって、言葉がなければ可能性はないし、そこに否定はない。言葉がなければ考えられない。

もちろん世界の天才は、言葉なしでも自分の脳内イメージを膨らませられて、しかもそれが明確。

言語以外のアウトプットができるから言葉に変換すると思考が漏れると言う人もいます(チームラボの猪子さんはそれに近いことをおっしゃっていました)。

ただ、少なくともぼくは紙に書いたり、キーボードを打たないと考えがぼやけてしまうタイプなので共感したし、ちょっとホッとしました。

おもしろかったのは、言葉とは他人からの借り物であるという指摘。

言葉とはコミュニケーションを必要とする集団が、その歴史の中で作り上げ、作りつつあるものだ。つまり、言葉を使っている以上、そこには自分以外のひとたちの圧倒的な力が入りこんでいる。

ふと思い出したのは、ジャン・コクトーがオリジナリティを嫌った理由です。言葉を使って考える以上「自分だけで考える」ってことはなくて、先人あっての自分なんだ。

私は人々がオリジナリティーにこだわることが大嫌いなだけなのである。

というわけで以上です!


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