3月6日

読み込むうちに、ときどき挟み込まれる「のである」がどうも普通とは違う。それが挟みこまれるだけで、文章がぎくしゃくと揺れる。視点が折り返されて光景が変わる。振り返って確認するような効果すらある。
 わたしの住んでいるのは南カリフォルニアの海岸沿いの、何万年か前に何か激しいことが起きたと思われる、凹凸の激しい土地である。ところどころに、刃物を使ってえぐり取ったようなキャニヨンがある。人間の手で均せないから、手つかずである。セイジが生え、サボテンが生え、ユッカが生え、コヨーテの棲みかがある。海岸の近くでは崖が切り立っているのである。
その麓をぐるりとまわって、道路が敷かれてある。車を走らせながら崖を眺めると、地層ができている。それぞれの層が、赤や黄色や白にくっきりと分かれている。それを見ていつも鷗外を思い出す。いや、鴎外の文体について考えていると、あの地層を思い出すのかもしれない。鴎外の文体には、ああいうふうに、言葉が、層になって見える。
 一番下に、生まれてからこのかた親と話してきた言葉がある。そだつ段階で話してきた津和野の言葉がある。東京に出て習いおぼえた言葉があるし、寄席で聴いた江戸言葉もある。貸本で読んだ書き言葉もある。それから中頃に、くろぐろとぶ厚く、漢文の層が横たわっている。それから西欧語がある。ドイツ語だ。英語もフランス語も、薄いがしっかりと層を作る。日本語の古典の詩歌や韻文が、それらを貫きとおしているのである。
 でも、それだけじゃない。鴎外の文章の中にときどき出てくる「のである」が、やっぱり怪しい。この怪しさはまねができない。やってみたが、普通すぎる。こんなものじゃない。むりやりあてはめたまま、放り出したような「のである」なのである。

『切腹考』伊藤比呂美(文藝春秋)p30-31

それから、わたしはやっぱり戦後の教育を受けているので、現代かな遣いの方が心に沁み入る。それで、鴎外先生に無断で、旧かなのときは現かなに直した。現かなのときはそのまま捨て置いた。一つ一つ直していくと、気が遠くなるよな作業である。だからコンピュータの検索機能を使って「つて」を「って」、「やう」を「よう」などと置換していく。多く置換する言葉は、多く鴎外先生も使っておられる。「すべて置換」をclickして何十と出てきたときには、それを、喉や舌をとおして発語する鴎外先生の声が、まざまざと聞こえる。わたしはこの行為を「手読み」と名づけた。書きうつす以下音読以上の行為であった。声に指で触れ、指や腕の筋肉をとおして聴き取る行為であった。そうやって読むうちに、全身に、鴎外のリズムが沁みた。

『切腹考』伊藤比呂美(文藝春秋)p32

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