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三木武夫の国民民主党

 皆様「生協」で何か購入していますか?私は子供の頃生協でものを買っていた高校の同級生が「田舎に生協ってあるかなぁ」と言われ、その時貰ったたらこのふりかけが味が薄く、それから二十年以上「絶対にブルジョワ生協に入らない!」と決意を勝手に決めてしまいました。冗談はそのぐらいとして、日本のco-op 生活協同組合は1000円払えばだれでも加入でき、退会すればその出資金の1000円は戻ってきます。自分も家族も家に仕事や学校で家を空けるケースが多い私だとなにかと使い勝手が悪いのですが、それなりに有機栽培の野菜や美味しい加工品が食べられる生協は家に誰かがいる前提なら、そこまで悪いことではないでしょう。今で言うと「サブスク」というものでしょうか?違うんでしょうね。適当に言っています。こうして組合員がお金を出し合い、なにかと必要なモノを仕入れ組合員に平等に購入の機会を与えられる「協同組合主義」は1950年代前半、保守政党で資本主義擁護の自由党や日本民主党、労働組合や社会主義、マルクス・レーニン主義という強固なイデオローグがあった日本社会党、日本共産党とまた違った「第三の道」でした。戦後、保守でも革新でもない第三極として共同体主義いわゆる民主的なコーポラティズムを目指した政党がありました。主役は三木武夫。
三木はのちに自民党で総理大臣となりますが、彼の政治遍歴は一風変わったものでした。

協同組合主義者 三木武夫が誕生するまで

 三木武夫は徳島県板野郡御所村出身の普通の農村出身者でした。父母はかなりの高齢一人っ子で目立ちたがり屋の子どもだったそうです。目立ちたがり屋は中学を退学になったり、進学先の明治大学のクラス委員になったりしますが当時明治大学は都市部自由主義の党、立憲民主党の影響力が色濃く三木はその影響を受けます。影響を受けただけで民政党の応援も左翼活動にも興味を示さない男でしたが、時の陸軍長老の田中義一内閣による各大学の弁論部の圧力は「弾圧反対」として大きく活動しました。三木のこの活動は保革問わない大学弁論部主体の人脈に繋がり、自身の派閥である政策研究会の形成に繋がります。
 明治大学を卒業した三木武夫はなんと明治大学法学部に入りなおし、今度は諸国外遊の旅に出かけます。行動力は抜群です。イタリア、ドイツ、そしてソ連を見て全体主義に強烈な反感を得ました。世界恐慌の影響でアメリカ、イギリスの大不況の現実も見ました。そして国際連盟が多くの国の人々が平和を訴える姿を見ました。中道主義としての三木武夫はこの時代に生まれたのかもしれません。散々外遊に打ち込んだ学生時代。就職先は全く決まっていませんでした。実際大学教員にでもなろうかなと思った矢先、1937年に衆議院が解散されました。三木はもう30歳。立候補できる年齢です。ただ郷里離れ明治大学で長く外遊生活を送った三木の選挙戦は当然無所属でした。東京の大学に進学し、その大学の勉強も海外留学がやたら多く徳島県民にとってもこんな洟垂れが代議士なんてと最初は思ったと思います。三木には都会的な雰囲気、国際性、そして若さがありました。当時の政治状況はようやく薩長藩閥政治を転換して政党政治の機運が高まりましたが、その政党政治が派閥や情実人事で動く腐敗した体制でした。無所属の若い政治家の熱い演説は有権者の心に響きました。この頃訴えた産業組合の充実や国際連携、既存政党打破は後の三木武夫の重要な政治スローガンになりました。1937年に代議士を当選。三木武夫は翼賛選挙でも非推薦を貫きました。ただこの頃千葉の化学工業のたたき上げ実業家森矗昶の次女と結婚しています。森の次女は睦子と言いました。冷戦終結後、護憲派に大きな影響力があった三木睦子です。翼賛議会と化した衆院議会で三木は概ね翼賛体制に賛同しました。この時代については後に日本社会党左派の人脈も公職追放になるほど戦争遂行に大きな力を発揮したのであまり非難もできません。実際三木は敗戦後、政治家を引退しようと思っていました。それを止めたのは睦子夫人でした。戦前からの国際派代議士だった三木武夫は戦後すぐの選挙でもトップ当選。三木武夫の「戦後」が始まりました。

中道勢力「協同主義」

 元々協同主義というものは挙国一致体制と同義であり、そうした中で路線対立がありました。GHQもこうした思想に警戒を強めていた矢先、中道勢力を目指していた日本協同党は国際派無所属の三木武夫や中道勢力結集だった国民党を合流させ国民協同党を結党します。三木のライバルとなる政治家は急死するか公職追放になるかで協同党の主流は三木武夫とその人脈で抑えることになりました。三木武夫の国民協同主義というものは自由経済や社会主義によらない国民共助の経済体制でした。本来なら社会主義と親和的になるはずの協同主義でしたが、議会制擁護と現体制(日本国憲法下の日本国)の擁護である中道主義を訴えました。国民協同党は選挙で敗北しましたが、吉田茂自由党を野党に追い込み、日本社会党、民主党、協同党の3党連立による片山哲内閣、芦田均内閣の与党の連立政党になります。片山、芦田両政権は短命内閣でした。当時の三木は社会党右派と民主党の一部を合流させ中道新党を構想していました。この考えが通れば、早々に民主中道政党は1998年を待たずにできていた可能性もありますが当時の世界情勢はそれを許さなかったです。
 三木としては社会党右派、民主党左派を結集した中道新党を構想していましたがまず社会党右派である西尾末広はそれについて時期尚早であると伝えました。民主党大物であった芦田均も中道新党に実力者が不足していて重鎮であった芦田ですらスキャンダルにまみれていたので中道新党構想に賛同しませんでした。一部の民主党と国民協同党は合流し「国民民主党」は結党されます。1950年参院選挙で惨敗した国民民主党は協同主義がというよりも中道主義が日本市民に受けがよくないことを痛感します。
 三木武夫の国民民主党も旧民主党勢力と三木が掌握する国民協同党勢力はあまり仲が良くありませんでした。日本国憲法を擁護しながら安全保障問題では日米同盟に妥協、与党勢力との対比が分からなくなりました。全面講和論と社会党左派と同じ外交観を持っていた三木はいつのまにか現実的に西側との単独講和論に傾いていました。中道と言う言葉は悪魔の言葉なんですよ。中道主義を貫徹しようとすると絶対に無理が出ます。中道派の大物であった三木武夫がそうだったように。
 中道勢力は公職追放者も後に引き入れ、改進党として名前を変えます。そのころになれば協同主義は廃れ、中道勢力として路線対立は常に起きました。後の保守合同によって中道勢力は自由民主党に移行し、その人脈は三木武夫の派閥に受け継がれました。

三木武夫内閣の統治とは?

 少数派閥三木武夫の「政策研究会」はキャスティングボードを握り、自民党内左右、官僚党人を往来し常に存在感を高めました。離党はせずとも党内非主流派で中道勢力として党内をひっかきまわします。金丸信の子分でしかなかった浜田幸一は三木が嫌いだったそうですが、浜田のような誰かの子分でしかいられない人物はそれが限度だったんでしょう。「クリーン三木」と言われた三木武夫は金権政治の打破を訴えそれを恨みに思った田中角栄の攻撃を受けます。防衛費もGNP1%に抑える方針を固めましたが、中曽根康弘に撤回されています。独占禁止法改正案も衆院で通りましたが、参院では有力だった田中角栄ら派閥のお陰で廃案となっています。アジア外交に積極的に関わった三木は石橋湛山の小アジア主義の後継者であったとも感じます。公害問題にも熱心な政権で排ガス規制にも影響があった政治家でした。私はどうしても田中角栄が巨悪に見えて仕方ないです。彼は自民党を私物化し、それを見習った弟子たちは自民党ばかりか日本国そのものを私物化しました。その私物化を見た他派閥の人間がさらに縁故による資本主義を進め、もう何も意味がない開発独裁を進めてきたのが2000年代の清和会政権です。田中角栄に連なる人脈は高度経済成長のうま味を残らず食べつくした人間たちだと強く非難したいです。その中でも三木武夫も彼らに権力を与えた役割をしました。高潔な人柄は革新でも保守でもなかなかお目にかかれません。後世の労働組合員が見た政治戦後史。私はそんなに単純に昭和自由民主党を再評価できないのですよ。それに勝てる気がしなかった昭和日本社会党も同罪ですね。政権交代ある強い政党。維新のようなリバタリアンではなく秩序と協調を守れる政党による政権交代。日本で実現するのが目標でした。今その誰もが期待する未来は風前の灯火です。日本市民として正念場を迎えています。


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