「隙間」は日常の、あちこちにある。
私は30代半ばまで 歌を歌って生業を立てていた。
ある日、 聴きに来てくれた足の綺麗な韓国人の友人に、『t子、 I   cried』
と言われた。それは拙い英語だったが心に触れた。彼女は共通の知人であるアメリカ人の男性と交際していたが、彼にもそして私にも別れを告げることなく、突然帰国した。
 思えば、彼女の発した、その歌手冥利に尽きるような言葉がきっかけだったかもしれない。
 その後、私は恋に傷ついた生き霊たちのためにだけ歌っていたことがある。ステージの上で、私は彼女たちに声なく叫んだ。「おいでここへ、私はあなたのために歌っている、あなたの傷ついた心とからだを抱きしめるために歌っている。いま一瞬、その痛みと苦しみから解き放たれてほしい。おいでここへ」そして私は、広いホールの隅々に、肉体から抜け出して漂う彼女たちの魂を見た。
 彼女たちは紛れもなく私の『仲間』だった。傷んだ心の視る日常という日々は、「日常の中の隙間」という形で存在していた。一度覗き込めば、吸い込まれるようにどこまでも落ちていく『隙間』。

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