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Being(在り方)より大切なモノなどないと思って生きている。
これまでの人生、自分は人を嫌いになる事が少ない人間だと思って生きてきた。
決して博愛主義者ではないし、菩薩気質でもない。むしろ短気でしょっちゅう猛毒を吐く。友人に「いつか刺されるよ」と忠告されたこともある人間だが「嫌いだ」と思う人は少なかった。きっと「コイツには近づかないでいよう作戦」が功を奏してきたのだと思う。
ところが、だ。何の因果か「大嫌いじゃー」と感じる人々と出会ってしまい、この1年半、関わり続けている。
「大嫌いじゃー」達は歳を重ねても「この世には自分とは違う感性で生きる人間がいる」という事実が認識できないままでいる。そして、うざい。
結界をブチ破る勢いの負のバイブスを身に纏い、無理やりガブリ寄りをキメてくる。
全身全霊を賭けてマウンティングを取りにくる。
二人以上では強気なのに、一人になると目が泳ぐ。イケてない。コンプレックス丸出しだ。
「大嫌いじゃー」達にとっても、私のような人間は「どうも気に食わない存在」らしい。
らららん♡と楽し気に生きている気配が増せば増すほど、誰かと和気あいあいと話せば話すほど、それを眺めるヤツらの顔は醜く歪む。
やれやれ。┐('д')┌ 面倒くせぇわ。
昔、あなたみたいな人に彼氏をとられたんちゃう?
↑
ふむふむ、それはあり得るな。
私が「彼」でも「私」を選ぶよ(笑)
自身の感情と向き合えない、内観力の乏しさは気の毒に思うけれど、こちらに向かって放出されては鬱陶しいこと極まりない。
近寄ってくるな、マジで。
今にも「自分は色んな事を我慢して頑張っているのよ!あんたみたいにヘラヘラ笑ってられないくらいにねっ!称賛しなさいよ!崇め称えなさいよ!」と大声で叫びだしそうなメンヘラ気質。
今まで自分を犠牲にして堪えてきたのだから、次は自分が神輿に乗れる番だ、と信じて疑わないのだろうけれど、こちらとしては、その発想が凍死しそうなほどに「寒い」。
「なんで、そんな憎たらしい奴と楽し気に盛り上がってんのよっ?」と地団太を踏みたいのでしょうが、人が向き合って話しているところに、身体で割って入ってくるとか、やめたほうがいい。
異常な行動だから。少なくとも割って入るだけの話題は用意しておけ。
あと、陰口を叩くときは周囲に気を配って慎重にね。聞こえてきた日にゃ、トラウマになるレベルの反撃を計画せずにはいられなくなっちゃうワ♡
残念なことに、憎しみ(嫉妬?妬み?僻み?)をぶつけられるたびに、私はますます「人生が楽しくてたまらないわ♡」を演じたくなる。
アッカンσ( ̄┰ ̄ ) ベーダ
一方で、損得勘定が先に立つのか、かりそめの仲間でも欲しいのか、または「100%同意」以外の言葉を知らないのか、そんな「群れ」になんとか入り込もうとする人もいる。
昨日、こう言われた。
「あの人達に合わせとくのも手じゃないですかね」
なので、こう答えた。
「自分の信条と相反するモノに妥協して媚び売るというのは、自分の人生を放棄するのと同じことですね」
「人間として終わってんな」なヤツを崇拝するフリをする、そんなクソくだらない人生に向かって舵を取るつもりもない。
逆風だろうが、何を言われようが、私以外の全員が神輿を担いで太鼓を鳴らし踊ったとしても、私は決して「あっち側」にはいかない。
自分を欺きながらの処世術なんざ、結局のところ、自分への拷問にしかならんだろ。
誰の人生、生きとんじゃ?
何より、美しくないわ。
私は美しいものが好きなのよ。
Being(在り方)はその人の価値観そのものだ。
個人の在り方が世界を変える草の根活動の一歩だと信じている。
☆彡ジョン・レノンの言葉。
「Our life is our art(その人の人生はその人が作り出すアートなのさ)」
過去の決断を悔やんでも仕方がないと分かっていながら、時折、あの時の自分はなんと愚かな選択をしたのだろう、と悶々としては叫びたくなることがある。
今、この瞬間も、生タマゴ500個くらい握り潰したい気分だ。
まあ、いいさ。
次の波へ漕ぎ出すまでは、自分の在り方を強固にする材料にでもしといてやろう。
けっ。