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「紀里谷 和明」という人、そして、私の「遊園地」
「宇多田ヒカルの元ダンナ」程度の認識しかなかった自分を叱りたい。
ある日の「Clubhouse」で紀里谷氏は人生を遊園地にたとえた。
結局のところ、人生は遊園地に行くようなものだ、と。そこには色々なアトラクションがあって、何を体験するかを自分が決める。退園するときには誰であっても、物質的なモノを遊園地から持ってでることはできない。持って出れるのは体験と感情だけだ、と。
財産、肩書、認知度、社会的な成果、俺はどれも手に入れたけど、全然幸せになれなかった、むしろ苦しくなったんだ、と。
そう言うと、あなたは全部持ってるからそんな事が言えるんだろう、って言われるんだけどね。そう思うなら(財産や肩書)をどうぞ目指してみてください、って思うよ、と。
どう生きたいのか。10代の頃からそんなことを考え続けてきた。
バックパッカーもした。海外留学もした。そのときどきで関心を持った仕事にも就いて、辞めた。幾つか恋もした。喜怒哀楽に満ちておもしろい時間だった。
しかし、中年期を過ぎると、いろいろな場で社会から問われるようになる。
「あなたの社会的な成果を具体的に教えてください」
若さを失った人間が世の中を渡るには、カタチある社会的成果が必須らしい。
感情が高まることにしか思いを注げないし、つまらないと思うとあっさり切り捨ててしまう。「10年後を見据えて決めろ」と言われても、そもそも10年後を見据える能力が備わっていないので、考える初歩段階でコケる。
私はそういう人間だ。
社会的成功や成果を持たないユルユル人生を歩いてきた私は、紀里谷氏の言葉を聞き、まったく先が見えない時代の今も尚、具体的な価値よりも自分の理想を追いたいと思う。
人生を終えるときまで、愛する人たちと遊園地で遊んでいたい。
ジェットコースターは最高だし、メリーゴーランドに乗ってアタマお花畑気分も味わいたい。退園して行くうしろ姿には「ありがとう」と言って見送りたい。自分が退園するときには「あー、楽しかった。じゃあね」と手を振りたい。
あぁ、なんて素敵な世界だろう。
もやもや悩んだら、苦しくなったら思い出そう。
「わたしは遊園地にいる」