映画「劇場」ろくでもない男の号泣センチメンタリズム
友人に言わせると、私は永田のような「デキの悪い男」に惹かれる「だめんず女」らしい。
永田は劣等感の塊だ。自信家を装っているものの、自分が一目ぼれした沙希の魅力にすら嫉妬する。沙希がどれほど永田を肯定しても、そんな彼女に彼は容赦なく噛みつき、意図的に傷つけて突き放す。
そして、それでも尚、自分に関わり続けようとしてくれる沙希の愛情を測ることでしか生き延びられない情けない男である。
そんな永田をなんとか守ろうとする(そう見える)沙希は正真正銘の「だめんず好き」である。
こうしたタイプの女は得てして一風変わった探求心を持っている。また、割りに人の本質を見抜くことができるので、天邪鬼な男に対して「彼を分かってあげられるのは自分だけかもしれない」という錯覚を起こしやすい。
しかし、母性本能を全開にして全力で永田を甘やかす沙希のような女にも限界は来る。以前は誰からも愛されてきたはずが目の前の好きな男から軽く扱われることで自己肯定感が破たんし始める。
出会った当時のあざといまでの可愛らしさは消え、ぞんざいな言葉、太々しい態度。この頃には沙希はもう鬱積した感情だけに支配されて自分を愛していない。
自転車の二人乗りのシーンでは、壊れてしまった二人の関係をやっと認識できた永田は、近い未来の小さな幸せを必死に提案することで、まだ自分を愛し続けてほしいのだ、と哀しいまでに訴える。
永田、もう、遅いよ。
アホの永田は分かっていない。愛おしい気持ちは変わらずとも、もう、ここまでだと線引きをして決意をした女の覚悟は何があろうとも変わらないものなのだ。
数年後の劇場で彼は叶えることができなかった沙希との幸せな未来を観客席に座る沙希に語り続けることで贖罪する。
本当は君とずっと一緒にいたかったんだ。
今、こうして僕は演劇を捨てずに自分の道を歩いている。
どうか知っておいてくれ、僕が本当に望んでいたこと、それは君の笑顔を見ることだけだったんだ。
笑ってくれ、あの頃の幸せだったころのようにどうか、笑ってくれ、と。
自分の弱さに向かいあえるようになった今も、永田は沙希に甘え続けている。そして、沙希もまた永田の思いに応じるように微笑む。
けれども彼女が永田のもとへ戻る事は決してない。
「会いたい人に会いに行く。なんでこんな当たり前のことができひんかったんやろ」
当たり前のことができずに悔やむアホは永田だけではない。
「巻き戻し」は思うほど簡単にできることではないのだ。そして、終わることでしか美しくとどめておくことができない関係もあるのだ。
沙希ちゃん、痛いほど分かるよ。