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映画「Fishmans」佐藤伸治が残したモノ

少し無理をすると翌日ぐったり疲れる歳になったこの頃、偶然に、しかし必然であるかのように、佐藤伸治の横顔が大きく映った「映画Fishmans」の予告ポスターを見た。

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Fishmans(フィッシュマンズ)。「バンドブーム」「渋谷系」という言葉がお洒落の代名詞のように溢れていたあの時代、彼らは東京のライブハウスで「イイ感じ」のサウンドを鳴らして揺れていた。

その頃の私は、秋に自転車を漕げばバッタと衝突するような田舎で、スペースシャワーテレビや音楽雑誌ロッキングオンジャパンを見ながら、彼らの音楽ライブを体験できる「都会人」をうらやんでいた。「今の東京=フィッシュマンズ」。そんな空気すら感じていた。

だから、彼らの軌跡をたどるこの映画の中で、大学生バンドから順調にメジャーデビューしたかに見えた彼らが、それなりに知名度があるように見えていた彼らが、俺らは俺らがイイと思う音楽を奏でるだけだもんね、というスタンスに見えていた彼らが「金がない」「売れない」と苦悩していたことに驚いた。

この映画は、彼に魅せられた仲間たちが「フィッシュマンズ」になり、アイコンでもあったボーカルの佐藤伸治を失うまでの軌跡を、当事者たちが当時の思いを振り返りながら、進んでいく。

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ボーカルの佐藤伸治(サトちゃん)の存在は、あの時代の中にあっても、際立って独特だった。「少年がそのまま大人になった」という表現がこれほど似合う人はいないだろう、そんな人だった。

ファルセットの弱々しい咆哮と細い肢体をくねらせる変態ダンス、緩いようで重いサウンド、極めてシンプルな単語を並べた哲学的な詩の世界。そして、肩の力が抜けきったような佇まいが、なんとも言えず素敵だった。

稀有な才能が加速する佐藤伸治と、それを追いかけるメンバーたちに生まれる焦燥や微妙な空気、いつまでも、仲間たちとじゃれ合いながら好きな音楽を創っていきたいと願う一方で、自分が辿り着けるところまで進もうとする衝動の間で揺れるサトちゃんの姿が、ノスタルジックな映像の中で、とてつもなく哀しい。

「若いながらも歴史あり」。若い彼らに対して、人生は容赦なく揺さぶりをかけたに違いない。サトちゃんにとって、最後のライブツアーとなってしまった「男たちの別れ」ライブ映像。彼の顔からは、きらきらと浜辺を走り回っていた「男の子」の面影は完全に消えていた。

焦燥とか絶望とか希望とか、自責とか諦めとか、感謝とか底知れない寂しさとか、一人で抱え込むには余りにも重い数々の感情が見え隠れするその顔で、絞り出すようなMC。人はどんな気持ちに陥れば、あんな表情になるのだろう。

あぁ、佐藤伸治って人は、果てしない孤独を生きた人なんだろうな。そう思わずにいられなかった。

そして、仲間の男たちが「一目惚れした」と語る「透き通った目」をした「ステージ上でめちゃくちゃカッコいい男」だった佐藤伸治は、この日から3ヵ月を待たずに、いなくなってしまった。

「くたばる前に そっと 消えようね」

その言葉の通り、かっこいいまま、突然、この世界から消えてしまった。

映画が終った後もしばらく座席に腰掛けて、席を立つ人々を眺めてみた。90年代にリアルタイムでフィッシュマンズを聴いていただろう世代は、頬をキュッと引き締めて目が潤んでいるように見えなくもない。「いいモノ」に敏感そうなお洒落な若者たちは、どんなことを思いながら、この3時間を過ごしたのだろう。

私はと言えば、この映画を観てから、今の自分は、彼らの音楽を聞いていた頃の自分に誓ったような自分だろうか、と、ずっと、ずっと、ずっと、考えては気分が沈みがちになっている。

気分が沈むって事は、この問いへの答えが「NO」ってことなんだろう。けれども、あれから何十年経った今も、私は、彼らの奏でた世界を聴いて、やっぱり、ふるえている。

そして、大好きだったはずの、今はもう大好きなのかどうなのか分からなくなってしまったけれど、いつも心のどこかにいる、あの人のことを思い返してばかりいる。サトちゃんに似ているな、と思う。

「二人の物語は いつでも あの日のまま いくつもの時がたっても」

終わってしまっても、消えないものもある。思い出にしか、到達できない場所も、きっとあるのだろう。

かつて、少年のままの青年が、下北沢で座り込んで、何時間も何かを眺めていたように、私はこれからも、目の前に広がっていく世界を、肩の力を抜いて、ゆらゆらと心地よく揺れるように歩いて行こうと思う。

自分にとって大切なことを大切にできたら、それだけで100点の人生だ。

I'm fish 「しあわせは 何気に 手に入れようね」

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