魂が携えているギフトを理解するとき。
また1つ我々は、魂が携えているギフトについての理解を深めるときなのではないだろうか。とここ最近感じている。
天皇家と国に智慧を授けておられる16人の隠者の中のお一人、海と書いてワダツミと読む役職についておられる方にお会いしたとき、私たちは3つのギフトをご先祖様からいただいてこの世に生まれてきているというお話を聞いた。
そして、実際にわたしも自分の背骨が持つ3つのギフトの音をからわたしが持っている才能を教えていただいた。
わたしはアルケミストなので自分の性質や自分が向かうべき場所というのがおおよそ見当がついていて、幼少期からその道をずっと歩いていて、3つのギフトにも十分に心当たりがあり、自分の特徴だと思って大切に研磨してきた。
なので、自分の3つの最大の能力はやはりこれなのか。と非常にしっぽりと入ってきて、鑑定を受けた後は、これまでの人生の歩み方が間違っていなかったと1つの修了書をいただいたような気持ちになった。
そして、この3つのギフトを改めて受け入れたことで、これを聞いたからにはそれらを活かしていく生きなければならないのだな、という気持ちにもなった。
わたしがご先祖様から授かった3つのギフトのうちの1つの中に、「手に力がある」というのがあるのだけど、自然療法を生業としているので手で触れるということをたくさんしてきました。そして、自分の手は、人よりもどうやら心地が良いらしい。ということをお客様や仲間から言ってもらうことでそうなんだ。と認めていくことになった。
そうやって20年以上、手を使って仕事をしてきた。
しかしである。自分の手の持つ力というのはどんな周囲の人が賞賛してくれても、自分では認識しづらく、お客様に現れた効果は、その方の自然治癒力と生命力のおかげと思っているので、わたしが触ったから。というのはあんまり関係なくて、みんなもそういうもんじゃないの?という気持ちもあって、特別なものだと思ったことはなかった。
みんなの手も磨けば、同じようになるわよ。そういう風に思っていた。
けれど、どうやら、そうではないらしい。元々持っているものや自分が研鑽したこと、それ以外のもっと何かもあるらしい。でもそんなこと日常では気に止める必要もない。日々の仕事は、その瞬間その瞬間最適だと思うことを積み重ねていく以外やることはないからだ。
そうやってどうやったら、より良い手になるだろうか。と考えて、結局は人間性や人格が全部が手に出るのであって、小手先でどうこうではないから、生き方ちゃんとしようと思って、自分の手というパーツを育てるために全体を高めることにしていた。
けれど、こういうのも普通のことでしょ?と思っていた。
自分にしかできないことは自分にとって当たり前すぎてその価値が本人はわからず、正当に認識し、信頼し、確信し使いこなすまでには、それ相応の意識のプロセスがあると思うのだけど、先日、これまでのわたしの認識を刷新するような言葉と出会った。
どんな種類の鑑定をされているか知らないのだけど、いわゆる人を見る鑑定をされている方と話をしていて、隠者の先生の鑑定の話になって、神代文字で書かれた鑑定書をその人にお見せした。そしたら、その人がこうおっしゃった。
「手に力があるってすごいね」と。
だって、手はそもそも力があるでしょう?
誰の手も癒しの手だから、お手当ができて自分や人を癒せるものなのに、それを『敢えて』手に力があると書かれるのは、相当だってことだもんね。と。
さらっとその人の口から流れてきた言葉に、あぁ、そういうことか。目から鱗が落ちた。
みんな手には力があるし、特別なことじゃない。と思っていたけれど、敢えて手に力がある。と鑑定書に書かれていた意味、鑑定書のど真ん中に書かれている言葉の本当の意味が肌でわかった感じがした。
自分の手のチカラへの認識が、これまでよりも深い腹の底の底の方にすとーんと腹落ちしてこれまでの確信よりも深くて重くて不動の確信へと昇華され根付いた感じがした。
もっと信頼してこの手を使おう。そういう決心すら生まれた。
人は自分の特性や性質を知りたがるけれど、知っただけで満足するってことがある。しかし、普通にしていたら知り得ないことを知った後、それを活かさないとそれを知ったという代償を払わないといけなくなるのだそうだ。
だから、わたしたちには知ったからには、それを活かし、使っていく必要性があって、活かし使わぬのなら知らなくてもいいのだ。だって知っただけでは幸せにはならないから。むしろ、代償を払うなら知る前よりも不幸になることだってあるのだと。
知ったからには。である。
確信したからには。である。
わたしはこの手で触れるもの、クリエイトするもの。その意味と価値と役割と責任をもっと深く理解し使いたいと思った。
鑑定書を別の鑑定士が読んでその感想を聞いていたら、わたしは非常に自分の理解を深めたという面白い現象に、この人は、きっとわたしにこの言葉を言うために目の前に遭わられたんだろうな〜とさえ思った。
その日は、その人に会うことになっていたと思う日で、わたしにとっても、相手にとってもとても大切な日だったという実感があって、人と人が交差していくってのはやっぱり面白いなと思う。
わたしはわたしの才を認めていたし、使ってきていたし、もっと上手に使えるようになるのではないいか、とずっとそう思ってきた。
そして、その方法は自分で自分がいただいたギフトを知り、より信頼し、確信することことなんだなと思う。
確信までいったらブレることはないし、確信をさらに確信するという何重もの厳重な確信の深化は、余計なものを削ぎ落としてくれる。
ギフトを認めるには順序があると思う。
疑惑、肯定、どっちでもいい、信じる、確信する。さらに確信する。さらにさらに確信する。疑いようがない。へ着地。
ごく自然に使っていた能力を意識的に理解、認識し、確信し、そうしてまたごく自然に使えるようになっていく。元に戻るっていうプロセスがあると思っていて、別に能力を使えなくなっていたわけでないけれど、元に戻って。というか、ぐるっと一周回って、楽に能力活かしていこう。っていう境地に入った。
こういったことは螺旋状に進む成長線だから、何度もこういう感覚は体験しているのだけど、一周するごとにやっぱり深まっていくのだ。
敢えて言われること。
あなたももっと信頼してみてはいかがかな?
あなたもあなたが思っている以上に素晴らしい。
そのように思います。
今多くの人に、自分のギフトへの理解を深めるという風は吹いていると思う。