01:立春大吉と新月とアロマ /2019.2.5
カーネリアンの香りにときめいた。
古代エジプトではカーネリアンは「幸運の呼ぶ石」として身につけられていたらしい。戦士が戦場へと赴く時には、「勇気と勝利のお守り」として身につけられていたとも。また、イスラムでは、「悟りの石」とも言われていたそうだ。
ちょうど、節分の日に、「バケーションが終わった。」と実感した。
というのも、この二年と少し、私は働くという動きを極々最小限にして過ごしていた。
23歳で開業しアラフォーになり、ふと自分にとって一番心地よい暮らしのバランスは何だろうかと、立ち止まった。そして、若い頃にできなかったことを取り戻すように旅に出たり、おしゃれをしてみたり、長い休暇をとってみたりして、仕事のことやサロンを運営することを一番に考えることをやめて、人生をまるっと健やかに豊かに日々を暮らすことに重心を動かした。
住む場所も東京と京都を半々の生活をしたりもした。いろんなホテルにもたくさん泊まったり、素敵なスパにもたくさん行った。でも、そういう贅沢は慣れて行って面白みがなくなって行った。
元来、贅沢にはできていなかったのかもしれない。
自分自身の本質にふさわしい暮らし方、生き方、命の使い方や生命の運び方を模索しながら、慢性疲労を根本の根本から取り除くようにゆったりと過ごしていた。
自分を褒めたいと思うのは、6割や8割くらいピュアなエネルギーが満ちてきた時に、「まだまだだ。」とそこで動き出さずにエネルギーが満ち溢れるまで粘ってスローペースで過ごしたことだ。体の中から「これをやりたい」「やらずにはいられない!」そういうものが湧いてくるまでたっぷりと自分に時間を与えたことだ。
そして、満ちて、溢れた。
待ちに待った感覚だった。
ようやく、私は疲労を脱ぎ去り、習慣という執着を手放し、心のわだかまりを溶かし、ニュートラルな場所に戻れたのだ。頭で思うそういう場所ではなく。細胞がそうだと感じる場所に帰ってきたのだ。
さぁ、動こうか。と気持ちが外に向いた時に、面白いことに東京でインフルエンザをもらってきた。高熱をだし、それこそ、もう燃やし尽くすものなど何もないわ。というくらい発熱と同時に心のゴミを燃やした。
自分がこんなにもネガティブになり、暗くなれるのかと笑った。あの時に見つけて、燃やし尽くしたのは、これまでの人生でずっと心の奥の見えない場所で何かあるとくすぶり、自分を揺さぶって来たものだとおもう。
自分で自分に張っていたレッテルでもあるんじゃないかと思う。その無用の長物を直視しながら、高熱にうなされていたあの時間はまさに、トドメだった。
新しい始まりに持っていくものを選ぶ。
そんな時間。
これまでを終えて、ある意味、死んでベリリリリと私が出てきた。病み上がりを丁寧に過ごしていたら節分がやってきて、宇宙のバイオリズムの妙と唸る。
「バケーションは終わった。ほら、好きなだけ動け。」
そう何かから太鼓判を押された感じがした。
自由に遊び、本当のところどう生きたいの?と心を泳がせることから、この世界に何をどう作り上げていくのか、というところに立ち、立春を迎えて、「新しい朝が来た。」と思った。
そして手に取ったのが、カーネリアンのブレンドオイル。
自分で調合した香りなのに「こんないい香りだったっけ?」と心奪われて何度も何度もその香りを取り込んだ。
必要なものを手に取るというのは本当だ。
前進する勇気とチカラを与え、サポートしてくれる香り。
まさに。今、私が自分にチャージするべきエネルギーだろう。
昨日も、今日も、カーネリアンにときめいている。そう、この波動と同化するまでカーネリアンを身にまとおうと思っている。
カーネリアンのブレンドオイル。
自分で作ったのに、どうやって作ったんだ?と思うから調合というのは面白い。最近、気付いたけれど、私は調合している時の記憶があまりない。
あの時間の私は一体全体、どうなっているんだろうか。自分のことが不思議で仕方がない。そんなことを思いながら、今日も香りを重ねていく。香りのある日常は宇宙のバイオリズムとシンクロしていると思う。
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22時のアロマなコラム
Aroma Journey
2019年〜2021年まで書き綴っていたコラム
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