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殴るという価値観。

ぎょっとするタイトルですみませぬ。
暴力に対する私感をつらつらと書きますが
言葉からの印象でもフラッシュバックする方などはどうぞここからを読み進めるのは御遠慮下さい。

親しい友人と、
世界平和についての一歩は何ぞやというテーマで呟きあったことがある。
「机の下に拳を握りしめて笑顔で話すこと」と友人は話した。
ああ、価値観も文化も違う相手との対話は相手を赦すことから始まるということね、と。
一理ある意見だ。

Twitterの鍵垢になるが、DVとモラルハラスメントについての話をする機会が多々ある。
そこには自己愛性人格障害やASDやHSPやカサンドラ症候群などたくさんの要素が絡むので、十把一絡げにこれはこうなんだよという定義めいた公式は出せないんだけど。
ただひとつわかることがあるとすれば
加害者側は相手を「許せない」気持ちが関係するのではないかと思う。

子供が小さな頃、とあるNPO女性問題団体の相談員や自助グループの主宰をさせて頂いてたのだが、暴力に対しての価値観がかなり緩い環境に置かれた経験がある人は簡単に手を上げる人が多い。全てがそうではないけど。
電話の向こうで泣く声やメールを打ちながら震えている、そんな女性たちの声を拾い上げるたびに鎖に縛られたイメージと暴力の実体を目の当たりにする。

暴力の正体は「支配」である。
相手の自由は自分が赦せる自由でなくてはいけない。加害者もまたそう言う環境下で獲得した価値観であるゆえに被害者なのだが、この連鎖の問題はまた違う時に。

支配という檻の中では主従関係が生まれる。
自分の体験になるが
電話ひとつ取るにも旦那の顔色を伺い、
来客が来ても旦那に伺いを立て、
それが自分の親であっても旦那の機嫌次第で居留守を使わなければいけない悲しさ。
娘の誕生日にと桶いっぱいの寿司の袋を持ってきてもドアを開けれない。
父親の足音が小さくなっていく音だけは一生忘れないだろう。

父親が持ってきたお寿司をパパの顔色を見ながら黙々と食べる娘たちを見て
「誰も幸せじゃない」「誰も幸せになれない」と心から思った時に、私は離婚を深く決意した。
美味しいね、と笑いながら食べたかったであろう。亡き父親の気持ちを思い出すと今でも泣けてくる。

人は支配されるために生まれてくるのではない。
誰かの人生の脇役でもない。
反対に、誰かを支配することや管理することは何の理由をもってしても許されることではない。

誰かにあなたを非難されても
こういう人もいるんだなと流せば良いのだ。
普通ならね。

しかし、ドメスティックな関係になればなるほど他者と自分の垣根を持てなくなる人が増えてきて
虐げられた側は意に添えない自分を責める。

頑張って頑張って弦が切れるギリギリまで
相手の器に合わせて絲を張り、そして切れる。
動けずに伏せれば、役に立たない自分を責める。

暴力や暴言と緩和する優しさとのサイクルが
日常で繰り返され、従者は内側から破壊されていく。

もはや殺人に値する。

その鉄鎖からは逃げるしかないと言われても
休息のない檻の中では思考の展開すら無理なのが
本当の実情なのだ。

私が相談員として接してきた方の中で
実際に逃げたのは一握りであろう。
ようやくDVやモラハラ(精神的暴力)というワードが市民権を得てきたこの国の世情ではあるが
井戸の底から切り取られた空を見るような日常を送る動けない被害者たちは多数いる。

何の力にもなれないけれど
私は発信するしかない。
自己肯定することからしか逃げる足場は築けない。
そう思いながら、鍵垢で発信し続けている。

殴られている人、折れて疲れている人

どうか
自分の感性にどうか檻をつけないで。
自分「らしさ」、分からないよね。
気持ち良いと感じたり楽しいと感じることには
誰の顔色を見ることもないんだよ。

お部屋を飾って、子供と花を摘んで
好きな歌を歌って、好きな服を着て
笑って笑って泣いて笑って
そんな当たり前こそが愛おしい。
どうかそこに立ち戻ってほしい。
気付いて欲しい。
自分は変われるけど、相手を変えることは難しいことに。

心も身体も
殴られていい人なんて絶対にいない。
そんな役回りで生まれてくる人なんかいない。

いま息をしていること。
それが既に素晴らしいことなんだから。

どうか、生きてほしい。