障害者になれない
*以下の文章は筆者自身の体験や当時の感情に忠実に書いています。個人や匿名の症状や表現を揶揄してると感じさせる表現があるかと思いますが、ご了承ください。
1.うまれつき
2002年2月4日に生まれた元気な女の子、ではなかった。
予定日より2ヶ月早い出産。早生児で1900gという低出生体重児、産まれてすぐ入ったのはNICU。たくさんの管に繋がれて、それでもわたしの小さな手は何かを握っていました。
母のお腹から出てきた私の顔は、唇が鼻まで大きく裂けてて喉の奥も大きく裂けてて。口唇口蓋裂という先天性の疾患を持っていました。
そして右心室の異常。心臓のポンプの役割をする筋肉がうまく動かない病気。
神さまは乗り越えられない試練は与えないというけれど、本当に?そうして私の人生はスタートしました。
2.覚悟してください
「覚悟してください」
よくドラマでみるあの言葉、本当に言われた時の気持ちを推し量ると苦しくなります。
早産で生まれたとはいえ特に何の問題もなく育っていた私は4歳の頃、高熱を出して幼稚園で倒れて病院に運ばれました。
地元の小さな内科に行ったはずなのに、気がついたら大きな病院のベッドの上で寝てました。
お母さんにいわれました。
「苦しいことがたくさんあるかもだけど、かあちゃんはそばにいるからね」
何が起きたかなんて知りませんでした。
知らなかったのに、毎日沢山吐きました。
毎日沢山泣いて、全身が痛くて。
プリキュアに憧れて伸ばしてた髪はいつのまにかいなくなってました。
面会時間が始まる13時、お昼ご飯を食べたあとのぽかぽかした気温の日、かあちゃんはなかなか来なかった。しばらく経ってかあちゃんが病室に入ってきた。
泣いていた。
私が記憶がある中で、母が泣いていたのは始めてのことだった。一緒に泣いた、不安で泣いた。
きっと私がかあちゃんを心配させてる、って申し訳なくて泣いた。
かあちゃんはその日からすごく優しくなった。
テレビを沢山見させてくれたし、プリキュアのビデオを持ってきてくれた。絶対買ってくれなかったおもちゃつきのお菓子も買ってくれた。
かあちゃんに会えなくなるのかなーって思った。
小児がんの一種である白血病だった。
でも私は生きている、今も元気に。
何処かの誰かの血液のおかげで。
3.ピアノの発表会
小学校三年生
3歳から始めたピアノの発表会がありました。一人で弾く曲は終えて、お兄ちゃんとの連弾。
なんかのワルツ、気がついたら私はピアノから離れた舞台の真ん中で突っ立ってました。
にいちゃんが呼ぶ「ねぇ…!」の声で我に返りまた鍵盤の前に座って続きから弾き始めました。
急いで舞台袖にはけるとお母さんにぶたれました
なんで上手くできなかったの、舞台の上でボケーとして恥ずかしかったじゃん。そう言ってお母さんは先に帰ってしまいました。
私も怖かったし恥ずかしかった。
ピアノを弾いてたはずなのに気がついたら舞台の上で人々の好奇の混ざった視線を受けて突っ立っていた。
自分が一番わからなかった。
大きな病院にお母さんと行った。
頭に沢山機械を付けられた。
優しそうなお医者さんが「ケッシンホッサ」って言ってた。何かはよくわからなかったけど、お母さんがショックを受けてるのはよくわかった。
病院の入り口でお母さんに病気だったのにぶってごめんね、っていわれた。そんなことよりお母さんを悲しませてる自分が嫌で嫌でたまらなかった。
その日から癲癇の一種である欠神発作と付き合う人生が始まった。信じられないくらい不味い薬を1日3回、お母さんがオブラートに包んでくれたり、粉薬用のカプセルに薬を詰めてくれたり。
脳波をたくさんとったのに薬は増えるばかり。
この時初めて、お母さんに八つ当たりした。
わたしをこんな身体で産んで酷いよ、って泣いた。
それを聞いてお母さんも泣いた。言ってはいけないことを言ってしまったんだって気がついた。
ごめんなさいって謝りたいのに、お母さんはあなたは謝らないで、ごめんね…って何度も何度も謝ってきた。
怒られるより辛かった。
4.障害者というくくり
小学校卒業するまでの12年間で、口唇口蓋裂・心臓病・小児がん(白血病)・癲癇(欠神発作)これらの病気や疾患を患ってた。でもわたしは障害者じゃなかった。
障害者手帳はもちろん、健常児と同じように授業を受けたし、入院で授業が受けられなくて宿題の範囲がわからなくても、健常児と同じように怒られた。
口唇口蓋裂が原因で月2回行ってた歯医者さんと発音のリハビリ。欠神発作が原因で10秒~60秒飛ぶ意識とやめられない薬。心臓病が原因でやめられない薬と激しい運動した後の胸がえぐれるような痛み。
誰も理解してくれなかった。
発達障害のあの子はひまわり学級で自分のペースに合わせて授業を受けてるのに、わたしが体育を休んだり学校に行けなかったりしたら甘えだといわれた。
お金と時間をかけてもらってるのが申し訳なくて、何回も自分の体を恨んだ。
わたしは障害者じゃないんだ。
学校に行けなくなった。お母さんが鬱になった。
わたしも日常生活が上手く送れなくなった。
通い慣れた病院の別の棟にある精神科に初めて行った。今までとは違う検査を沢山された。
自閉症スペクトラム障害とそれに伴う注意欠如・多動性障害(ADHD)と鬱病と診断された。
わたしは障害者になった。
晴れて障害者になった。
なぜか生きるためのハードルが下がった気がした。
人よりできなかったことは全部これらの障害のせいだった。わたしは自閉症だった。安心した。
でもまた新しい悩みのタネができた。
5.本当に自閉症なの?
わたしは中学受験を無事終えて第一志望校だった中高一貫の女子校に入った。最初のうちは空気を読むのが苦手だったり、長時間集中できなかったり、人の気持ちを考えるのが苦手だったりで、多少仲間はずれにされた。焦った、焦ったからわたしは自分のキャラクターを確立された。
うるさいいじられキャラ。
みんなからいじられてもヘラヘラして、バカな自分を演じた、みんなが仲良くしてくれた、グループに入れてくれた。最初はキャラだったのにいつの間にかそれがわたしの性格になった。
それからは特に何の問題もなく生活を送っていた。
勉強は苦手だったけど、部活に打ち込んで、人と話すのだって大好きだった。みんなの前で色々発表したり友達とふざけて大きな声で笑っていた。
最高に楽しかった。
中学の友達は小学校の頃の友達と違って多様性を受け入れてくれた。授業中じっとしてられないわたしも、空気を読めないわたしも、あなたはそういう人だよね〜ってケラケラ笑って受け入れてくれた。居心地が良かった。
そしてその頃通っていた病院を変えた。
新しい先生に「うつ病って診断されたのいつ?2年前?ふーん、自閉症からの併発ねぇ…ぽくないけどね笑」
その瞬間何も考えられなくなった、わたしは障害者っぽくないんだ、このカテゴリーさえわたしの居場所ではないんだ。
パニック障害と睡眠障害になった。
薬も通院も増えた。
それでもわたしは障害者じゃなかった。
空気が読めて拘りもそんなにない自閉症で、多動性や衝動性も我慢できるADHD。
全部ぽくない。
健常児っぽいけど、健常児じゃない。
障害者っぽくないけど、障害者。
わたしは誰なんだよ。
6.おしまい
とても苦しかった、どこにも所属できないわたしが世界でひとりぼっちな気がした。
鬱を言い訳に自分の身体に傷を入れ続けた。
そしてこの人生をやめようと決意した。
親に出させる治療費も病院行く時間もこの身体ももう嫌だった。
2018年12月18日
飲まずに溜めてた薬を一気に飲んだ。
指先の感覚がなくなった、息が出来なくなってくる。
息ができないのに意識は途切れない、体が動かなくなってくる恐怖。
甘かった。
わたしは必死に酸素を求める肺に従って、震える手で救急車を呼んだ。
そこでおしまい。
気がついたら大きな病院のベッドの上。
わたしの命は機械に管理されていた。
でも安心した。
そこにならいていいんだと安心した。
わたしはたくさん泣いて、両親も泣いていた。
わたしは自分の命すら自分の手で終わらせることができなかったのに、自分のしたことを後悔して17歳まで必死に生かせてくれた両親に申し訳なくなった。
きっとわたしが自分自身を認めてなかったから。
障害持ちでたくさんの人に迷惑と心配をかけてきたのに、わたしは障害者じゃなくて健常者でも無い、その事実を自分が一番わかっていたから。
7.さいごに
ここまで呼んでくださりありがとうございます。
自分の障害や病気の話をしたのはこれが初めてで、ここまで書き上げるのに2ヶ月かかりました。
自分の過去と向き合うのはとても辛くて書き進めるほどに涙が止まらなくて、行動も発言も、取り返しのつかないことなのに今でも後悔してます。
けどやり直しは効かないから、わたしはこれからもこの身体と付き合っていくしただ日々を生きます。
障害者か障がい者か。
こんな議論が交わされる中、わたしはそれすら属せないと悩んでいました。言葉が存在する時点でマイノリティはマイノリティでしかありません。
けれど、マイノリティが社会に存在してることを証明するには名前が大切です。
区別から生まれる差別も、無意識から生まれる差別も、差別を無くそうとして生まれる差別もあります。
自分がすべての立場になったことがあるからこそ自身の経験をこの文章に起こすことを決めました。
何を感じたかは人それぞれです。
感想でもくださったら喜びますし、貴方の心が動くきっかけになれていたら嬉しいです。
ありがとうございました。
2019/10/16 ふき(洋梨@la_flance_)