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死生想[1]-「生」は偶然拾い上げた氷に同じ
世の人が口を揃えて言う「生きる」と言う事の尊さは真実であるのか、死生想をする。
想うに、ニンゲンが「生きる」事は「氷塊」を手に持つと同じではないだろうか。
貴方が「生きる」事に疑問を持つのならば読んで頂きたい、そして、貴方が「生きる」事に疑問の余地は無いと断ずるのならば是非批判して頂きたい。
+氷塊を偶然手に持った者
現代の一般常識として、生命の誕生は崇高であると規定されている。特にニンゲンとして生命ある事は、奇跡であり尊くあり大事であり感謝であり、そして続くは生命賛美の美辞麗句である。だが、生命が在る事はそこまでの価値と意味を有せねばないのだろうか。
私が想うに、生命が在ること、その誕生とは、道端でふとした偶然に拾い上げた「氷塊」と同じであると考える。
初めは、自身が「氷塊」を手に取った事の自覚は無いだろう。それでも暫くする内に、自分が「氷塊」を持っている事、つまり、自身が生きている事に対して自覚が芽生える。そうして、手の中に在る「氷塊」を眺め弄り、時間の経過と共に「氷塊」が変化していく様を見つめ続ける。そうこうしている内に、「氷塊」は解けて小さくなっている事に気付く。そして、自分が持っている「氷塊」が消えてしまう事に驚き怯え狼狽えている内に、「氷塊」は完全に解けて消えて無くなる。それが自身の死である。
+氷塊を持った者の行い
ニンゲンは自らの生命が在る事、即ち、「氷塊」を持っている事に対して、強い執着と誇りを持っている。それを自尊心や尊厳と呼ぶことで、「生きる」事に意味と価値を見いだそうとする。だからこそ、多くの人々は自らが手に持つ「氷塊」を大切し大事とする。やり方は人それぞれではあるが、共通するのは執着と誇り、その上での自尊心と尊厳である。
例えば、自分の「氷塊」を他者の「氷塊」を見比べて、一喜一憂する。氷の一部分のカタチがより素晴らしい、よりカッコイイ、より優秀有能、より価値が意味を有する「氷塊」こそが、重大だとする。
例えば、解けゆく自身の「氷塊」に恐慌し、どうすれば解けるのを遅らせられるか、どうすれば美しい氷を保てるか、どうすれば自分の「氷塊」を永遠にする事が出来るか、と悩む。そして、医学技術やあらゆる健康法、もしくは生活態度の改善を目指し続ける様になる。
例えば、ニンゲンにとって「氷塊」は解けてはならないと広く信じられている。その為に、健康を害するモノゴトを生活から排除しなければならないと規定される。酒、タバコ、運動不足、栄養偏向、ジャンクフード、過眠・短眠、人間関係、各種ストレス、と言ったモノゴトを避ける事で「氷塊」を長く保ち続ける事が善性であり、社会的義務とさえ宣う。
例えば、自分だけでなく他者の「氷塊」も後生大事にしなければならないと定めている。その極致として、手に持った「氷塊」を意図的に手放す事を多くの人々が忌避し、蔑む。他人事であっても、唾棄される。故に、あらゆる理由や意図の有無に関わらず「氷塊」を落とそうとするニンゲンに対して、社会や個々人が他者の「氷塊」が落ちる事を許さない。もし、公然と自らの意志に基づいて「氷塊」を手放すにしても、細かく定められた理由に則り尊厳を堅守したと証明してからでしか「氷塊」を手放す事が許されない。
例えば、生命の誕生とは「氷塊」を偶然持ち上げたに過ぎないにも関わらず、誰かが「氷塊」を手に押し付けた、と責任転嫁する。自らは持ちたくも無かったのに、持つか否かの選択肢が与えられていないのに、誰かが勝手に「氷塊」だなんて冷たくて持ち辛いモノを持たせた、と苦情を繰り返す。更に、こうして自分の意志に関係なく「氷塊」を持たされたけれど、この「氷塊」を自ら手放す事も苦痛に満ちていて、進退窮まった最低最悪なこの状態に誰が責任を取ってくれるのか、と喚き散らす。
+氷塊は水だ
手に持った「氷塊」とは本質的に「水」である。
つまり、「氷塊」たる「生きている」事と、「水」たる「死んでいる」事は、同質等価なのである。ただ状態が少しだけ異なるに過ぎない。だからこそ、最初からニンゲンの信じている「生命」なんてモノは、無いとも言えるだろう。
この「氷塊」と「水」は同じである、との考え方は仏教観においても語られている。つまり、「色即是空・空即是色」である。「色」が「氷塊」であり、「空」が「水」である。「水」が集まり固まった事で一時的に「氷塊」となり、また時間の経過と共に「氷塊」は元の「水」へバラバラに解けていく。そして、「水」から「氷塊」が偶然と共に持ち上げられる。
また、「氷塊」は絶対的に「水」へ還る。なぜならば、「氷塊」は元より「水」だからだ。古来よりニンゲンは乞い願うが、「氷塊」を「氷塊」のままにして置く事は出来ない、不可能である。
しかし、それでもニンゲンは古代から現代においてまで、自身の不老不死を求めて止まない。魔術的試行、宗教的恍惚、SF的科学技術を以ってしても、「氷塊」が解けて消えて「水」に戻る事を止められない。
けれど、ニンゲンはすぐに、この真実を忘れる。なぜならば、ニンゲンは目の前に在り手に持っている「氷塊」に見惚れる生き物だからだ。ニンゲンが構成する社会も同じ様に、「氷塊」と「水」が同じである真実よりも、「氷塊」を手に持ち続ける事が誉れ高くある、として構成する人々の意識を向けさせる。
+氷塊を持っている者が感じる特別さ
特に現代社会に生きる多くのニンゲン達は、自身を含めてニンゲンが「氷塊」を持っている事に対して、特別な執着を持っている。あらゆるニンゲンにおいて「氷塊」を持ち続ける事こそが至上であり、そこに疑問の余地を受け付けず、無批判でなければならず、少しでも「氷塊」の保持に疑問や批判の思考や言葉を発すれば瞬く間に排斥される。
なぜ、ニンゲンとその社会は「氷塊」を持つ事に対して、大事であると認識するのであろうか。
まず前提として、人類史において、現代を除けば、ニンゲンと言う動物の個はいとも容易く死んでいた。日本で子供の成長を祝う七五三も、その歳になるまでの稚児は神のモノであり、ふと消えてしまうのが当然だと言う前提認識がある上で、その境を超えて生き延びた事を祝うと同時に共同体の一員となる事を祝うのである。
ニンゲンの生は、出産時に少なくない死亡率があり、次に幼児の時にも病魔や事故または天災もしくは人災によって容易く死に接する。更に生き延びたとしても、一部の特権階級を除けば、ニンゲンは50歳も生きれば上等であった。
つまり、現代人が忘れてはならないのは、ニンゲンが古来より「生きる」を尊んだのは、ニンゲンは簡単に死に絶えるが故に、逆説的に「生きる」状態を稀有として尊重したからである。この大前提を無視し、現代の死亡率が前人未到の水準にまで改善されている事を意識せず、ただ無邪気に「生きる」は素晴らしいと無思慮に宣うのは、愚かである。
現代の高度な科学技術の社会において、古代より続くニンゲンの死生観は成立し得ない。現代の「生きる」は、非常に安易となり、無量の繁栄を築き上げた。しかし、一方で、死に近接する事が大幅に減少する状況を生み出した。その結果、現代のニンゲン社会は「生きる」事を無条件の善性として賛美し、「死ぬ」事に対して目を背ける事が正しいとして忌避するのが当たり前となった。
+元は水である氷塊を持つと言う意味
ここで私が言いたいのは、ニンゲンの「生」は「氷塊」であり、本質は「水」と言う「死」であるとの真実だ。ニンゲンは「氷塊」を手に持った時点で、「水」へ解け切る時限性を担うのである。だから、「生きる」も重要であるが、「死ぬ」も同じ様に重要なのだ。
例えば、手に持った「氷塊」が余りにも冷た過ぎて、余りにも持つには苦痛を伴うカタチであるならば、その「氷塊」を手放すのは間違っていない。その「氷塊」を手に持つのは自分自身だけしか居ないのである。なぜならば、「氷塊」は「水」である以上、どの機会に「水」へ戻すかは自分次第で善いからだ。
例えば、初めからまたは偶然によって「氷塊」が欠けたり割れたりしてしまった時に、周囲の者達や共同体の助けを得ながら、壊れた「氷塊」を持ち続けるのも善い。一方で、持つに窮したとして自ら壊れた「氷塊」を手放すのも同等に善い。「氷塊」を持ち続ける事は別に偉大でも高尚でも無く、「氷塊」を自ら手放す事も軟弱や意気地無しや無責任では無い。手の中に在る「氷塊」は常に「水」に戻り続けているのだ。
例えば、何らかの理由において「氷塊」を手放そうとした時に、周りの「氷塊」持ち達が、せっかく手に持ったのにもったいない、「氷塊」を手にした奇跡に感謝しろ、「氷塊」を持ちたくても持てない者も居るんだぞ、などと宣ったとしても、手放す選択をしたのならば手放して善い。自分自身にとって「氷塊」を持つ理由が無いのならば、それは元より「水」なのである。ならば、意図して「水」に戻したとしても間違っていない。
例えば、「氷塊」を大切にして長々と維持する為に様々な方法を実践する者と、「氷塊」の維持を気にせずに解けるを促進させる様な悪習慣を持つ者と、その両者の行為は同義である。なぜならば、どちらの「氷塊」も同じく「水」に戻ると考えれば、どの様な行動も結局は「水」へと向かう働きであるのは変わらないからだ。
+氷塊は水であると言う平凡な結論
確かに、ニンゲンは根源的欲求として「死にたくない」を持つが故に、「氷塊」を維持する事に特別の執着を持つ。だが、「氷塊」は必ず「水」に戻ると言う結末を有するならば、「氷塊」のままで居る事を願うのは夢想に過ぎる。どれだけ乞い願おうとも、絶対に叶わぬ夢は白昼夢よりも性質の悪い病魔となってしまう。
しかし、現代において「氷塊」を持って「生きる」ニンゲン達は、この病魔を夢想している状態であると自覚さえせずに居る。そうして「氷塊」を持つ苦しみ、「氷塊」が解ける苦しみ、「氷塊」を他者と比べる苦しみ、「氷塊」に意味を探し続ける苦しみ、「氷塊」を手放せない苦しみ、と言った様な「氷塊」の特別さを自分勝手に決めつけて、自家中毒を起こす様にして苦しんでいる。
ならばこそ、意図も偶然も、「死ぬ」は全く等価において、全く平等の元に、善である。だが、当然、ニンゲンは死ぬべきであると言う意味では決して無い。だからこそ、以上の話を最も端的な言葉にするならば――
「ニンゲンはいずれにしても死ぬのだから、死にたければ死んでも善い」
――とした何の変哲も無い結論となる。
eof.
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