「感動ポルノ」の持つ意味(7)
「聲の形」は大今良時によれば「恋愛ではなくいじめ問題がテーマ」だという。
だが、恋愛になっている。このアニメ映画の主題歌も「恋をしたのは」で、恋愛がテーマとなっている。
何故被害者が加害者を好きになる展開になるのか。
この理由を紐解くにはこの「『弱者救済』の幻影」を読めば分かる。この本で非常に興味深い指摘があったのだ。
聴覚障害を持つ女性が健常男性と恋愛をする話はディズニーのシンデレラストーリーそのものだという。
「『弱者救済』の幻影」の作者・櫻田淳氏によれば健常男性との恋愛はハードルが高く(聴覚)障害を持った女性にとってまさしく「玉の輿」そのものだという。
そして、こういう玉の輿話が世間に好かれる傾向にあるし「健常者の作るシンデレラストーリー」の方が「障害当事者の語る実話」よりも遥かに受け入れやすいという。
「君の手がささやいている」はまさしくシンデレラストーリーであり、それより以前に作られた聾唖夫婦の「名も無く 貧しく 美しく」よりも遥かに絶大な人気を誇った。
(ちなみにネットで「聴覚障害男性との恋愛は有り得ない、健常男性万歳」と言い切る(書き切る)聴覚障害女性を見かけました。)
大今良時はなんだかんだ言って「君の手がささやいている」をパクっていただけなのだ。少年誌で他の漫画家さんのように男同士のイジメを描くよりも、玉の輿ネタともいえるシンデレラストーリーを描いた方がやりやすかったからそうしただけなのである。
実際、「聲の形」では友人や家族(=父母)に恵まれない聴覚障害美少女がシンデレラと同じ境遇にあり、王子さまはといえばガラスの靴(=手話)を元に逃げた(=転校した)美しいシンデレラ(=聴覚障害美少女)を探す。
王子さま(=イジメ加害者)は、シンデレラ(=聴覚障害美少女)が舞踏会(=普通学校)に来ない限りその存在を知ることはなかった。(手話を使う聾唖児なら聾学校になるだろうし、地元の聾学校もそうだが、専用宿舎があるから転勤族でも可能だったと思うがどうだろうか。)
「聲の形」と「シンデレラ」の違いと言えば、いじめるかダンスを申し込むかである。ただ、これは「子供」と「大人」の違いだし、シンデレラの王子さまは継母や継姉など強欲な女性たちを無視している。
美少女を専門としているアニメ会社はおろか、主題歌を担当したaikoまでもが結局「聲の形」のテーマを理解してない。それどころかシンデレラストーリーにミーハーして、原作よりもはるかに恋愛に重視を置いた曲を作り上げた。
(原作自体、被害者が加害者に愛の告白をするシーンや聴覚障害女性と健常男性との結婚を暗示するかのようなシーンを出したら誰でもそう思うのだが。)
↑aiko
aikoは紅白歌合戦の選考に漏れたことを悔しがるコメントをだしていたが、私としては落ちて正解だと言いたい。
「聴覚障害者いじめ」をどうしても「恋愛」に結び付けたがるような輩に歌われたくないし、聴覚障害を理解してないどころか理解する気もないただの便乗魔に二度と聴覚障害を歌ってほしくない。
感動ポルノの意味について、改めてステラ・ヤング氏の演説を思い出してみよう。
「テレビに向かって微笑んでも聴覚障害者の為の字幕が出るわけではない。」
聴覚障害女性と健常男性の恋愛ネタをパクり、世間に受けがいいシンデレラストーリーに仕立てて「加害者の贖罪」を度外視する上に、字幕問題という聴覚障害者にとって重大な問題を完全に無視している時点で「聲の形」は「感動ポルノ」そのものである。
改めて森田成一氏やジャン=ピエール・アメリス氏の行動には頭が下がる。(特に声優の森田成一氏は、自分の声というかセリフが分からない聴覚障害者を無視することなく字幕問題と向き合ったことには「感謝」しかない。)
オマケ:聴覚障害美少女の名前はこの「シンデレラ」の「ガラスの靴」から取っているのだろうか?
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