裸の履歴書vol.4~見えない敵…
浪人生活の始まり。師匠に弟子入り、住み込み生活の始まりであった。師匠宅に住み込んでの生活となると、落語家の修行を連想されるかと思うが、體(からだ)の大きな若者が何人も同じ屋根の下で寝食を共にする、それはさながらプロレス道場の寮生活のようであった。自転車のトレーニング以外の時間はとにかく雑用に追われる毎日。「のんびり」なんて言葉は皆無。
住み込みで共同生活を経て、よかったことは、我慢と忍耐の経験。他人と生活することでストレスの耐性がついた。、それと実家にいる限りついてくる甘えを排除できたこと。親から離れるのは必要なこと。
毎月親に月謝を払ってもらっていたが、当時は今ほどは有り難みを感じていなかった。大人になってから自分で学費を捻出して専門学校に通った身からすると学費を、いや学ぶ機会を与えてくれる親は本当に有難い存在だと思う。ちゃんと「ありがとう」を言った記憶がない。遠い空からありがとう。
このとき見えない敵とも闘っていた。親が全面的に応援してくれるのとは対照的に、見えない敵は正月にやってくる。「やってくる」はおかしい。やってくるのは自分だ。なぜなら自分が正月に帰省するからだ。そう、見えない敵とは親戚である。見えない敵とは祖母であった。敵である理由は、幼い頃からこの祖母に可愛がられたためしがない。故に通常あって然るべき、「なつく」という過程のない屈折した年月を経てきた。その見えない敵から発せられる台詞は、「いつまで遊んでるんだ?ダメだと思ったら早く就職しなさい!」であった。自らの孫がプロアスリートを目指して修行しているときに、かける言葉がそれか?この人と血が繋がっていると思うと恥ずかしくなった。自分の血を恥じた。ついぞ、「頑張れ」の一言を一度も聴いたことがなかった。見えない敵といえば、親戚連中も私が競輪選手を目指していることについて、なにか小馬鹿にしたような、「なれるのか?」といった雰囲気を感じる。空気を感じていた。ひねくれものの私は、エネルギーに変換する。「今に見てろよ」だ。
4回目の試験を控えた一月前、兄が急死。茫然自失とはこのこと。「受験は出来ない、控えなければ。」そんなことを言った記憶がある。冷静になれるわけがなかった。兎に角、精神的に余裕がなかった。余裕があるわけがなかった。家族が死んだのに入試に臨んでいる場合か?とか、諸々(通夜、葬式等)経て、一週間近く自転車に乗っていなかったし、こんな状態で実力発揮出来るのか?と不安しかない。親は「心配しないで受けてこい!」と言ってくれた。肚は決まった。
試験当日「亡き誰々のために~」なんてドラマチックなことはあるのか?と普段は訝る自分だが、発走機に自転車を装着。冷静に、ゆっくりと兄に向かって「走ります」と語り、発走機を飛び出た。合格圏内のタイムを叩き出した。一次試験合格。親は「兄が自転車を、背中を押してくれたんだ」と言った。私は反論しなかった。おそらくそうだろうと思っていたからだ。(兄はいまだに忘れた頃に夢に出てくる。夢から醒めて、そうだ、居ないんだと氣づく)一ヶ月後の二次試験でも好タイムを出し越年。
二年を要して日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)合格。いよいよ、念願の「競輪選手」へとあと一歩まで近づいた。競輪選手になるのが念願となっている時点で、この先の展開に影を落とすとはこのときはまだ知らない。ただただ、浮かれていた。
ものわかりがよくて、察して、目立ちたがりで、真面目で、ダサいことが嫌いで、うっすら支配している空気が嫌いで、冷静で、ひねくれもので、
つまりは、我思う…「可愛げのない浪人生」だった。
続く
1975年7月17日 青森市生まれ