裸の履歴書vol.7~めんどくさいやつ
スタートでつまずきはしたものの、デビュー3戦目にして初勝利を挙げ、順調に駆け上がるかと思われた競輪人生。言ってしまえば、その後もつまづきの連続であった。S・A・Bと3層あるランク(KPK)の最下層B級から脱け出せないまま4年が過ぎ、A級になれたのは2層制となった2002年4月である。競輪選手としては二流、三流もいいところ。
この頃の私は精神的に参っていた。
思うように結果を出せないでいると、諸先輩方から助言をいただく。相手は良かれと思って言ってくる。他意はない。それを無下に断るのもなんだかなだ。この頃の私は、現在とは違い「いい後輩」を演じるきらいがあった。助言を表向き有り難く頂戴する。すると他(の方)の助言がやってくる。ちょうど災難に遭遇した際に、会う人全員に訊かれるようなものだ。段々心が疲弊してくる。これでは、いずれ潰れてしまう。そこで、「いい後輩」からの脱却を図った。好きなように振る舞うようになった。助言も自分が懇意にしている方以外キッパリと断った。
隠していた本来の自分を出し始めたのはこの頃からだ。
「競輪は点数がものをいうジャンルである」というのは先にも述べた通りだが、上下関係に於いても同様のことが言えた。
ある開催場所での出来事。選手控え室にて…各々畳1畳くらいのスペースを与えられレース日を過ごす。当時の私は、現在とはかけ離れただらしのない性質で身の回りを散らかし放題散らかしていた。その様を見て、ある先輩が注意をする。「汚いから片付けなさい。」「はい。」と返事をして片付ければいいものを、ひねくれものの私は、こともあろう諭してくれた先輩に、私「じゃあ○○先輩にも注意してください!なんで同じように注意しないんですか?○○先輩が強いからですか?」(○○先輩とは私の隣で私と同じかそれ以上に散らかしていた ※○○先輩は当時A級1班の特選選手で所謂メイン級)
いちゃもんをつけたかったわけではなく(結果的にいちゃもんがついているが…)、ただ階級で差をつけてほしくなかっただけ。別け隔てなく接してほしかっただけ。その1点であった。
そんなこんなで、その後もなにかと上役にも物申すため「めんどくさいやつ認定」されていたと思われる。
ものわかりがよくて、察して、目立ちたがりで、真面目で、ダサいことが嫌いで、うっすら支配している空気が嫌いで、冷静で、ひねくれもので、エネルギーの方向が違っていて、つまずいて、めんどくさいやつで、
つまりは、我思う…「可愛げのない競輪選手 序盤~中盤」だった。
続く
1975年7月17日 青森市生まれ
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