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砂漠に雪を降らすこと

【要約】                                                             馬鹿を見ることを恐れ、物事を諦観すること。知識や情報を集め、ただ自分の存在意義を考えるのに安住すること。これらは、将来進む道を切り開く勇気を持たず、古き良き学生時代を懐古するだけの人に異ならない。今を生きるには、まずどこに進むべきか、と頭を掻き毟りながら、悩み続けることである。そして、「自分が生きる世界にこんな不幸があるなんて恥ずかしい」という意識を持ち、社会という砂漠を前進し続けることである。そうすれば、砂漠に雪を降らすような"奇跡"を起こすことだってできるんだと思う。

将来どんな自分でありたいのか、期末テストを5日後に控えながらも、そんな”贅沢な”悩みを抱えている。そんな自分に、親切な友人が『砂漠』(伊坂幸太郎著)を貸してくれた。

大学生の物語であるのだが、いくつか今の自分に響くフレーズがあったので書き記しておきたいと思う。

”そうやって、賢いフリをして、何が楽しいんですか。この国の大半の人間たちはね、馬鹿を見ることを恐れて、何にもしないじゃないですか。馬鹿を見ることを死ぬほど恐れている、馬鹿ばっかりですよ。”

まさに自分のことを言ってるのではないかと、心に刺さるものがある。チープに言い換えてしまうと、ここで言う「馬鹿」とは「物事を達観して評価する分析家気取りで、恥をかかないように自分自身は何も行動を起こさない人」ということになる。

完全な引用は覚えていないが、『大学で何を学ぶか』(加藤諦三著)の中にも似たようなフレーズがあった気がする。「賢さとは、達観して物事を見ることではなく、自分の位置を把握しつつも進むべき道に傾倒することだ」みたいな。

「現実を『まったくしょうがない』と冷笑するようになれば大学生はおしまいで、大学での学びはそんな諦観主義を習得することではない。」とも。

冷静に物事を分析することは”大切”だけれども、それはあくまで自分なりの課題意識を持ち、自分こそがその問題を解決したいという気概を抱くからこそ初めて”意味を持つ”のであろう。

また、それこそ”達観した”社会人が発した言葉の中にもギクリとさせられるフレーズがあった。

”学生はたいがい二通りに分かれる。その場凌ぎの快楽や楽しみに興じて、楽しければそれでいい、と考える学生と、自分が何者かであることを必死に求めるタイプだ。真剣に考えて、様々な知識や情報を得て、それで自分だけは他人と違うと安心する者だ。”

自分が他の誰でもない、ユニークな存在であると”自分で”考えることは意味がないということか。また、それはただの傲慢でしかない。真剣に自分の存在意義や、強みを考えること自体は大切だが、それほど自分に希少価値があるわけではないし、安心して思考停止に至ってしまうのはもっと良くない

そういうことなのだろう。大学入学後の1年生の自分に言ってやりたい言葉だ。

ただただ達観して物事を見ること、自分の価値を自分自身で固定してしまうこと、それぞれに問題があることはなんとなくわかった。

では、どうやって自分の道を見つけ、前に進んでいったら良いのか。

そんな苦悩が表現されているのが、次の2つのフレーズ。

”確かに、生きていくのは、計算やチェックポイントの確認じゃなくて、悶えて、『分かんねえよ、どうなってんだよ』と髪の毛をくしゃくしゃやりながら、進んでいくことなのかもしれない”
”『自由演技って言われたけど、どうすればいいんだろう』って頭を掻き毟って、悩みながら生きていくしかないんだと、わたしは思う。”

単純明快な前提だが、自分の人生に「正解」なんてものは存在しない。そして、自分自身でその正解を”作り出す”、正解だと”納得する”ことは難しい。だからこそ、皆絶対的な正解を知りたがり、これだけやれば問題ないという指標に頼りたくなる。

案外、普段から髪をくしゃくしゃやりながら悩んでいる自分は、その意味では”正しい”生き方をしているのかもしれないと少し思ったり思わなかったり。

頭を掻き毟りながら、将来を考えつつも、その間に時間は容赦なく進み、いつかは「社会」と呼ばれる砂漠の厳しい環境に足を踏み入れなくてはいけない。ただただ、自分の進むべき道を悩んで、立ちすくんでいてはその間に人生が終わってしまう。

”学生時代を思い出して、懐かしがるのは構わないが、あの時は良かったな、オアシスだったな、と逃げるようなことは絶対に考えるな。そういう人生は送るなよ。”  (卒業式での学長の言葉)

同じ砂漠に進むとしても、砂漠に放り投げられ生きていく人生と、自ら砂漠に前進していく人生とでは大違いである。前者は、砂漠に囲まれた小さな町での学生時代を懐古するだけで人生を終える。後者は、砂漠という過酷な環境の中で自分を前進させ、今を精一杯に生きる。

その違いを生むのは何なのか。その問いにヒントを与えてくれているのが、誰よりも広大な構想を抱きつつも誰よりも自分の無力さを知っている西嶋君だ。

”今、目の前で泣いている人を救えない人間がね、明日、世界を救えるわけがないんですよ。”

なるほど、目の前の問題一つ一つに当事者意識を持て取り組めということか。否、そうではない。

うまくそれを言い当てており、西嶋くんの価値観の源泉になっていると言われていたのが、サン=テグジュペリの書籍の中のこの一文である。

『人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に忸怩たることだ』

自分には直接には関係しない人々や、その社会問題に関して当事者以上に「恥ずかしい」という意識を持つ。つまり、自分の責任で生じたわけではない不幸であったとしても、「恥ずべき問題である」と心から思い、自分がどうにかしなくてはという一種の義務的な意識を持つことなのだと思う。

普段生活をしているだけだと、本当に自分の身の回りで起きる出来事にしか注意がいかない。さらに言えば、「自分がどうしたいのか」「自分がどうすれば得か」などと「自分」のことしか考えない日も少なくないと思う。

「自分には関係がない」、「嘆いても何も変わらない」などと”達観”するのではなく、「自分が生きる世界にこんな不幸があるなんて恥ずかしい」と自分ごととして引き受け、解決に向けて自分を傾けることによって、「社会」という砂漠の中で自分を前進させる気概を持つことができるのではないだろうか。

そして、その意識を持ち続ける人こそが、

”その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ。”

と語り、誰も予期しなかったような変革を、奇跡を社会にもたらすことができるのではないだろうか。

そう、読んで思った。


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