”無駄に”嫌われない勇気

【要約】                   自分の人生を歩むために嫌われても良いという覚悟は重要だが、わざわざ嫌われる行動を取る必要はないのでは。そして、”無駄に”嫌われ、悪い印象を抱かれるのを防ぐためには、他者を尊重する意識と、正しく伝えるスキルが重要なのではないか。

『嫌われる勇気』が一斉を風靡したのは、早5年前の2014年になる。かなり簡略化すると、自分の人生を生きるために、自分と他人の課題を分離し、嫌われる勇気を持つというような内容である。

協調性と”和”を重要視する日本社会において、この本が人気となったのは、人々が抱えていた鬱憤をうまく言い当てた上で、解決策としてのマインドセットを示していたからなのかもしれない。

当時高校生だった自分も、「人に合わせすぎる必要はないんだな」と少し肩の荷が下りたような気分になったのを覚えている。

ただ、後になって「嫌われる勇気」の受け止め方について心に留めておきたいと思ったことが2点ある。

1つは、目的と手段の逆転が起きる可能性についてである。”調和”を必ずしも大事にする必要はないと感じた私は、自分の個性を集団の中で発揮することに邁進するが故に、”わざわざ”不快感を与えかねない押し付けをしたり、強い言葉を選んでいたような気がするということである。

言い換えると、本来「自分の人生を生きるためには、嫌われても仕方ない」というアドラー心理学の理念のはずが、自分の中では「嫌われることで自分の人生を生きていると実感する」という手段の目的化が起こっていたような気がするのである。

言わずもがな、嫌われることにより自分の人生を生きることができるのではなく、自分の人生を生きる”過程”において嫌われても仕方ないというだけの話である。積極的に自分が嫌われる必要性メリットもない。

2つめは、何に対する対立なのか、その対象を明確に切り分けるということである。普段の生活の中で”無駄に”反感を買う可能性のある機会を認識し、伝え方について十二分に検討することが重要になる。

例えば、議論の場などで批判をし合う機会や、相手に都合の悪い質問をしなくてはいけない場合など、意外と”対立構造”を取らなくてはいけないケースはある。つい、ヒートアップしてガツガツと批判の応酬になってしまう場合も少なくないのではないだろうか。

ただ、この際、「何と何で対立しているのか」や「何に対して批判をしているのか」を常に念頭におく意識と、そのやりとりの後の”関係修復”は欠かせないように思う。つまり、人格を否定しているわけではないことあくまで議論の中での役回りとして対立構造を作っていることを、その場やその後において態度で示す必要があるということだ。

ここは、これまで協調性をうまく生かしてきた日本の特性を生かしていければと思うところである。(日本に限らず、どの国・地域でももちろん重要だが)

まとめると、前者の手段の目的化に関しては、まずその思い違いについて認識し、目的と手段を混同しないよう留意することが重要である。後者については、「何に関して対立しているのか」の対象の切り分けを行うことが効果的である。

そして、両者に共通して重要なのは、「根本に他者を尊重する意識を持つこと」なのではなかろうか。思いやりを持ち、人にgiveするという意識を前提として持っていれば、人を傷つける可能性のある、安易な手段の目的化に陥ることを避けることができる。そして、議論の中でも人格とアイデアを分離して考えることで、人格に対して最大限の敬意を払うとともに、異なる価値観同士による化学反応を起こすことができる。

このように、他者への敬意を大前提として心に持つことが、”無駄に”他者から嫌われないために重要であり、嫌われていたとしてもできるだけ良好な関係に間柄を保つ勇気が今の社会の中では必要とされるのではないか。

というか、そんな世の中の方が安心できるのではなかろうか。


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