月夜見海月の良さを語りたい。
蓮ノ空のこと好き好きクラブのみなさん、こんにちは。ゆらぎ仮説と申します。
今回は、2024/9/4にリリースされたスリーズブーケの新曲『月夜見海月』について、104期Fes×LIVE TWINKLE STAR FESTIVAL!!などを振り返りながら、私が抱いた感想などについてお話しできればと思います。
その前に
既に『月夜見海月』に関する解釈や考察は多くの人によって行われており、今から書き連ねる内容が私独自のものだと言うつもりは一切ありません。私が新たに考えたこともあれば、無意識的に他の方の意見からお借りしたものもあるかと思います。(大抵は後者かと思いますが…。)
「おいおい、それ自分の意見なんだけど。」
と思われることがあれば、多分その通りです。ありがとうございます。
また、頓珍漢な感想や考えが多々あると思いますが、ぜひ批判して、反論して、馬鹿にしてください。
私の的外れな意見や感想がこの記事を見ていただいた方の反面教師となり、月夜見海月の解釈を深める一助となれば、こんなに嬉しいことはありません。
この拙い記事がこき下ろされ、インターネットという海の藻屑として消えることを祈り、先へ進みます。
日本神話との関係
既に多くの方が指摘しているように、月夜見は日本神話に登場する神「ツクヨミ(月読命、月夜見尊)」の文字遊びである様です。
さて、私は高校時代古典を真面目に勉強せず、日本神話などにも理解が浅い為、ここはインターネットの集合知をお借りすることとします。
おお、興味深い情報が早速出てきました。
一つ目はやはり、「月夜見」が「暗い夜を照らすことによる名とする説」が存在するとや、「月の神が夜の世界や海の支配を命じられている」という記述があることでしょうか。『月夜見海月』は曲全体として「夜の海」がモチーフとして採用されており、これは上に引用した内容と合致することからも、日本神話を題材にしていることは間違いなさそうです。
二つ目は、「月読(つくよみ)」は月齢を数える意で、暦に関係する名とする説がある、という点です。ここで、『月夜見海月』について考える上で一つ無視できない背景情報が存在します。
その一つとは、吟子が”伝統”について考えながら歌詞を綴ったという点です。
太陰暦において基準となる月を「読む」とは、乃ち「時間を数える」ことと同義であり、従ってツクヨミは暦を司る神と解釈されているそうです。このことを踏まえると、『月夜見海月』という曲名の巧さが浮かび上がってきます。つまりツクヨミとは、"伝統"という時間の手綱を握り司っている、まさに現代の我々なのではないかということです。
今までの吟子は、"伝統"という先人らの想いの積み重ねを自分が左右することに、ひいては台無しにしかねないという重圧に怯え、自分にはその資格がないとして伝統に手を加えることを忌避していました。しかし活動記録4話を経て、「伝統をただ伝えるだけではなく、自分の想いをそこに乗せて受け継ぐことが重要なのであり、今を生きる私のその想いは伝統を構成する必要不可欠なパーツである。」という結論に至った吟子の姿はまさに、「暦(≒伝統)を司る」ツクヨミそのものだと感じました。
また、「月を不死や再生の象徴として信仰する例が多い」ことも見逃せません。「人は肉体が朽ちた時に死ぬのではなく、他の人々に完全に忘れ去られてしまった時に本当に死ぬのだ。」といったような言葉を見たことがある人は多いと思います。逆に言えば、その人のことを覚えている人がいる限りその本人は生き続けることができるということです。伝統を紡いできた人々の多くは既に亡くなっていることがほとんどですが、そうした人たちの想いを現代に生きる我々が受け取り、新たな形で再生するという営みが繰り返される限り、今まで伝統を紡いだ人々は永遠に生き続けると言えるのではないでしょうか。
言い換えると、伝統を月と置き換え、夜という人生の暗闇の中であっても一際輝く月(=伝統)を指針にして前へ進もう、という風に「月夜見」の部分を解釈することもできるのではないかというのが私の考えです。
考えすぎでしょうか?考えすぎかな。
ちなみに、暦(こよみ)は「日読み(かよみ)」、つまり日を数えることから転じた言葉だそうです。また一つ賢くなりました。
イントロ
ピアノの独奏から始まり、次に様々な楽器が重なり合って盛り上がったかと思えば、Aメロに入る前にまたピアノの独奏に戻ります。寄せては返す、夜のさざなみを連想したのと同時に、夜の海の寂しさと落ち着きみたいなものを感じました。
Aメロ 1-1
「艶やかで美しい鰭」とありますから、ここでの「蝶」とはいわゆる一般的な魚の喩えだと推測できそうです。魚が胸鰭で泳ぐ姿を「水の中で蝶が舞った様だ」と形容しているのでしょう。
もっと言うと、「美しい鰭で自由気ままに泳げる魚」は自分がもたない能力をもつ他者を表し、対してふわふわと水中を浮かび波に身を任せることでしか移動できない海月は自分を表している様に思えます。
(今回の記事では、ここでの仮説を前提に進めていこうと思います。)
次に「私にはないものを 欲しがるのは駄目でしょうか」と続きます。
他人に対する羨望と「でもどうせ無理だろう」という諦念がよく表されている気がします。ここを歌うのが吟子であることにも注目したいです。
自分がちっぽけに感じるから、先人らの知恵と技術の結晶である伝統に惹かれるのか。それとも伝統というスケールの大きいのものに触れ続けてきたからこそ自分のちっぽけさに自覚的にならざるを得なかったのか。どちらにせよ、自分自身に価値を見出せないというのが吟子の心に深く根ざした病であり、ここから生じる他者への羨望と自身への諦念を端的に表したあの歌詞は素直に巧いなあと感じました。
「(ラブライブに)優勝できなければ私にはなにも(ない)」と溢したことのある梢センパイにこのパートの前半部分を歌わせているのもまた考えられてますよね。自身に対する無価値感という点では梢センパイと吟子は似たもの同士な気がします。もっとも、梢センパイはその考えすら花帆ちゃん以外の他人に明かすことはないほど禁欲的であり、その禁欲的な姿勢それ自身が彼女にとっての数少ない慰めなのでしょうが…。
少し話は逸れますが、吟子のように自分に価値を見出せない人間は現代の若者のスタンダードですらあると思います。情報通信技術の発達により他人のキラキラとした姿(このほとんどは虚構なのですが)が可視化されたことで他人と比較する機会は爆発的に増加し、会社での仕事が細分化されることで自身の社会への貢献度は見えにくくなり、自分の価値や生きる意味を見失った人でこの社会は溢れている様に見えます。吟子は現代人の鏡だとすら言えそうです。
私も漏れなくその一人であり、だからこそ他者への羨望と自身への諦念を歌ったあの歌詞はそこそこ刺さったのですが、皆さんはどうでしたか?
Aメロ 1-2
外敵から身を守ったりカモフラージュするために進化した鱗が、つまり外敵がいなければ必要なかった鱗が、他者からは煌びやかに見えるというのは皮肉ですね。
「似合うわけないくせに」とそれらしい理由を付けていじけながらも、そんなキラキラした鱗に本当は憧れているんですね。口ではあれこれ言いつつ、本当は可愛いと言われたい梢センパイをなんだか思い出します。
「似合うわけないくせに」と強がっていながらも、ここの歌詞を歌うときはやはり物悲しい顔になるし、CDとは違ってFes×LIVEでは「変でしょうか」と消え入るように歌うのも良いなあと感じます。本当に心の底から似合う訳が無いと考えているなら「変だろうか」などと考えることもないはずなので、心のどこかでは「キラキラの鱗が似合う自分」を想像している、でもそれは現実的じゃないし変だと思われたくない。こういう両義性が人間臭くて良いなと思います。
Bメロ 1
「他の人はどうしてあんなにキラキラとした鱗(≒才能や能力)を持っているのに、どうして私はいつも透明なのだろう(鱗みたいなキラキラしたものを持っていないのだろう)。」といった意味でしょうか。人間、競争の場に出て上を目指せば目指す程、鱗でキラキラした人と透明な自分を比べて落ち込むものです。「なぜ私は透明なんだ」「なんで私には鱗がないんだ」と自分に問うたところで答えは返ってきません。どうしたものか。
「下手なりに泳ごうか 願うだけじゃ 海の月にはなれない」と歌詞が続くのですが。
いやあ…良いですね。なんかね、良いんです。
何が良いかって、「不出来な自分を受け入れて、認めてあげてるところ」が良い。
鰭で自由に泳ぐことも綺麗な鱗を纏うこともできない自分に失望しながらも、ルサンチマンに逃げずに吟子が自分の夢や目標を肯定してあげた瞬間な訳です。つまり、「欲しがるのは駄目でしょうか」「夢見るのは変でしょうか」といった歌詞に表されるような他者依存的な価値尺度から脱却し、「下手なりに泳ごうか」と自己本位的な価値尺度に転換した瞬間だということです。自分をちっぽけだと評してしまうほど自身に存在価値を見出せなかった吟子が「下手なりに泳ごうか」と自分を肯定する瞬間を捉えたこの曲は、彼女が大きな進歩を遂げた表れである気がします。
また、私はDOLLCHESTRAの「苦しくて苦しくて辛い思いをしながらも強く生きてやる」みたいな曲が割と好きなのですが、その点で『月夜見海月』はドルケの曲と通ずるところがある気がします。
なんだか堅苦しい表現が多くなってしまったので簡単にまとめると、吟子は自分のことを少し好きになれたんじゃないかということです。それは活動記録第4話で描かれたように、同期との絆が深まったことや、伝統衣装を活かしたFes×LIVEの衣装製作をクラブのみんなに応援してもらえたこと、伝統への自分なりの向き合い方を見つけられたことなどが理由にあると思います。
こうした考え方の転換の先にある目標が「海の月になる」というものですが、海の月とは一体なんなのでしょうか。これに対する私の答えはもう少し先に譲ろうと思います(別に大した答えではないです)。
「どうして この身体はいつも透明だ」の部分を『透明⇨自分がない』と解釈し、それ以降の歌詞はそうした自分から脱しようという意思の表現なのではないかとする意見もありました。なるほど確かにそういった見方もできますし、そうするとまた別の意味が浮かび上がってきそうです。その場合「どうして」という歌詞の存在が少し気になりますが、素敵な解釈だと思います。
サビ1
「ただ 流れてゆく毎日に サヨナラをしよう」
波といった周りの環境に身を任せて揺蕩うだけの存在から、能動的に行動できる存在に変わろう、ということでしょうか。
先ほど「吟子が他者依存的な価値尺度から自己本位的な価値尺度へ転換した」と言いましたが、それはこの部分とも辻褄が合う気がします。
さて、次の「大丈夫 誰より知っている 涙の味なら」の部分ですが…
この歌詞の前ではもう、人間の言語は力不足です。
ただただ頭を垂れて、はぁと息を吐くことでしか私のこの感情は表現できません。
ここで私が溜め息マシーンとなってしまう理由を一応簡単に説明しておくと、画像を見ていただくと分かる通りここを歌っているのは花帆と梢センパイの2人なんですよね。ここの2人が涙の味を味わうこととなった出来事と言えば、まあみなさんお分かりですよね。
花帆は相方である梢センパイが背負った重みに気づけず、肩を貸すことができなかったことから。梢センパイは長年の夢であったラブライブ本戦の舞台で敗退した悔しさや、何もかもが報われないという無念さから2人きりの部室で共に涙を流しました。
花帆が梢センパイの夢を自分も一緒に信じると約束することで希望のコンティニューを選択した2人なのですが、この出来事を踏まえると「誰より知っている 涙の味なら」という歌詞は涙なしで聴くことはできないんですよね。
加えて「大丈夫」と自分に言い聞かせるようにして自分を鼓舞する姿がまた涙腺崩壊に拍車をかけます。
私が下手な言葉でここを語るとせっかくの良さが台無しになると思いますので、さっさと次に行きましょう。
「ほら 藻掻く度に泡粒が 真珠みたいでしょう」
ここもまた良いですね。本当に。
「(ラブライブに)優勝できなければ私にはなにも(ない)」と溢すぐらい結果主義の強かったはずの梢センパイが、結果に至るまでのプロセスを肯定する歌詞を歌っていることの尊さに打ちひしがれます。
Aメロ 2
さて、この歌詞の殺傷力をより一層実感していただく為にも、スクールアイドルクラブのみんながメンバーカラーを決めるという配信で、梢センパイが自分のメンバーカラーを「マーメイドグリーン」に決定した時のセリフを以下に書き起こしたので、まずはそちらをご覧ください。
(3:58辺りから該当部分が始まります。)
…どうですか?私はこの気持ちを文字に起こすことは到底できません。
「届かない声だった」とは、恐らくラブライブ本線で敗れた(≒歌が決勝に届かなかった)ことを指していて、「それでも歌を歌うのは」とは去年ラブライブで敗れたものの、それでも諦めず、花帆との約束も続いていることを指しているのではないかと私は考えました。
そしてこの配信内容を踏まえて。マーメイドが大好きで、その歌声に憧れて自身のメンバーカラーを「マーメイドグリーン」にした梢センパイがですよ?「(去年ラブライブに敗れたのに、まだラブライブ優勝を目指すして歌を歌うのは)人魚姫を真似た馬鹿馬鹿しいことでしょうか」と問うている訳です。自分の憧れであるラブライブ優勝もマーメイドも、等しく馬鹿馬鹿しいものだったのかという深い深い絶望の問いを、画面の向こうから二重に問いかけてくる訳です。
こんなに残酷な歌詞を投げかけられて私にはどうすることもできないのですが、ただ一つ確かなのは、ここを聴くたびに私の心ははちゃめちゃにかき乱されるということです。
ここの部分で花帆と梢センパイだけが画面端に寄り、吟子から離れているのも、「ラブライブ優勝を目指す(≒花帆との約束を守る)ことへの問い」「人魚姫に憧れることへの問い」という比較的2人に固有な問いであることを強調しているのではないかと考えました。
Bメロ 2
「抵抗しよう」でも「抵抗しなくては」でもなく、「抵抗してみようか」なのが良いなあと感じます。このふと独り言を溢す時のような言い方が、なんだか心地良いなと思いました。
何度も繰り返していることですが、見苦しさも私の一部であると受け入れてこれごとまとめて肯定する姿勢は、吟子にとってやはり大きなターニングポイントであったように思えます。
「沈み続けるのは簡単だ」も良いですよね。自分を雑に扱って、自分の意思を無視してどこまでも下の方へと沈み続けるのは実は簡単なんです。自分を大切にして、自分の意思に従って泳ぐことの方が実はずっと難しい。ここの歌詞は、そんな大切なことを教えてくれている気がします。
サビ 2-1
ここでの「追いつけない煌めき」とは、水中から見上げた月なのではないかというのが自分の考えです。サビ1にも「見上げた 波打つ空の彼方 月夜見海月」とありますから、波打つ空の彼方にある煌めきは月明かりぐらいだというのは想像に難くないでしょう。
Bメロ2では「沈み続ける」自分を否定し、見苦しくとも抵抗して泳ぎ続けることを選択しましたが、ここで早速溺れそうになっていますね。早くない?
サビ 2-2
「きっと どんな姿形でも ここへ来たのでしょう」と続きますが、ここもまた大きな価値転換の瞬間だと私は感じました。どういうことでしょうか。
Aメロ1の歌詞を特徴づけていたのは、「自分(=海月)が持っていない他者の才能や能力への羨みと自分への諦念」でした。この内「自分への諦念」は、「不出来な自分を受け入れ、見苦しくも下手なりに泳ぐ」ことを選択したことで解決しました。
そしてもう一つの「他者への羨望」ですが、これを解決したのが「きっと どんな姿形でも ここへ来たのでしょう」という考えであり、ここを一つの大きな価値転換の場面だと感じた理由です。今までは他の人の鰭や鱗を羨んでばかりの自分だったけど、「不出来な自分を受け入れ、見苦しくも下手なりに泳ぐ」ことで他者への羨望が薄れて、自身の運命を強く肯定できるようになったのではないでしょうか。
どうですか?なんだかこの言葉って、不思議な包容力があって安心しませんか?何度生まれ変わってもきっと自分は同じ姿形でこの場所に立っているのだろうという確信は、自分の過去の過ちや苦しみすらも全て受け入れてくれる、強い強い自分への肯定だと思いました。ニーチェの永劫回帰の考え方もこんな感じだった気がします。間違ってたらすみません。
自分はちっぽけだと感じるほど自信も自己肯定感も希薄だった吟子が、「きっと何度生まれ変わっても、私は今の私を選ぶだろう」と歌う程現在を肯定できるまでに至ったのです。なんて素晴らしいのでしょう。
その上での「ねえいつか そっと誰かの世界を 照らしてみたい」という歌詞。
ここ、本当に良いなと思いました。本当に良いんです。
吟子が自分に存在価値を見出せないという病から脱し、他者に手を差し伸べたいと思うまでに成長したんです。すごくないですか、これ。
この一連の流れを俯瞰すると、なんだか涙腺が緩くなってくる感覚がします。立派になったな、吟子。すっかり吟子の親気分です。
さて、Bメロ1で先送りにした「海の月」とはなんなのか問題ですが、私はサビ2-2で登場した「誰かの世界を照らす存在」なのではないかと考えました。
では何故「誰かの世界を照らす存在」を吟子が目指すのか。それはきっと、「誰かの世界を照らす存在」が身近にいたからではないでしょうか。その存在とは誰か。
梢センパイと花帆です。
梢センパイは「花咲きたい」と願う花帆をスクールアイドルに誘うことで彼女の世界を照らしましたし、花帆はラブライブに敗退して押し潰されそうになっていた梢センパイに寄り添い、その重みを一緒に背負うことで彼女の世界を照らしました。そしてその2人はまた、「友達ができなかったちっぽけな私」に真剣に向き合って私の世界を照らしてくれました。このことが、自然とこの2人が吟子にとっての目標になった理由ではないでしょうか。
うん、やっぱり最高だよスリーズブーケ。
Cメロ
「冷たさも」は吟子が、「暗闇も」は花帆が、「孤独さえ」は梢センパイが歌っています。
人間関係の冷たさを経験した吟子。
持病で思うように動けず、暗い幼少期を過ごした花帆。
音楽家の出身にも拘らずスクールアイドルという道を選び、ラブライブ優勝の為に個人主義を貫いた梢センパイ。
それぞれが経験してきた苦い過去を乗り越えて発する言葉とは。
ラスサビ
苦しみを乗り越えた先で言いたいことはやはり「能動的に生きよう。ダメな自分を愛そう。自己本位に生きよう。」でした。これらは私たちにも刺さる言葉ですね。耳が痛いです。
ちっぽけな自分が他者の世界を照らすまでに成長した姿を描いたこの歌を聴いた誰かが、また違う誰かの世界を照らすことができればいいな、そういう意味での「届け私の歌」ということでしょうか。
その他に
ここまでは私の考えを中心にお話ししましたが、ここからは他の方の意見なども参照してみようと思います。
・海の中から見上げた月と泣いている時に見上げる月はどちらもグニャグニャして見えるはずであり、従って月夜見海月とは涙で滲んだ目で月(輝き)を見上げる私の隠喩なのではないか。
⇨詩的な解釈で良いですよね。水中から月を見上げた時にグニャグニャして見えるはずだというのは確かに思いつきませんでした。そう考えると、ここでの「海」とは涙のことだったりするのかなあなんて考えたりしました。涙は原始海洋の成分と似ているそうですから。結束バンドの『小さな海』を思い出しましたね。
・海月が海の月になる為にはその場に留まっている必要があり、必然的に海の流れに抵抗しなければいけないのでは。
⇨確かに。盲点でした。サビ2の「抵抗してみようか」とはそういう意味なのかもしれません。
・クラゲは夜に浮上し、光を反射する海の月のように見えるから海月と書くらしい。憧れを目指して海上に昇ってきた3人を海月で表現して、その輝きを私たちに反射する。これが『月夜見海月』→『Reflection in the mirror』の収録順に現れているのではないか。
⇨カップリング曲にまでは頭が回りませんでした。この考えも素敵です。
空に浮かぶ月と海上を揺蕩う海月はまるで鏡越しに向かい合った像のようにも見えるかもしれませんね。事実、夜間飛行中のパイロットは夜空と海面の区別がつかなくなることがよくある程だそうです。
最後に
ここまでこの様な駄文をお読みくださり、本当にありがとうございました。
主張の内容がごちゃごちゃしていて大変読みにくかったと思います。本当にすみません。
冒頭でも述べましたが、この拙い記事の内容が反面教師となり、皆様が月夜見海月を読み解く際の一助となれば幸いです。
最後に、この記事を執筆中にうい様が素敵なツイートをされたので、そちらをご紹介して終わろうと思います。
それではまた!