終わり無き日常の王様だって・・・・?
BROTHEL CREEPERS
HISASHIとTAKUROが作詞の共作、TAKUROが作曲というなかなか珍しい組み合わせ。この楽曲以外にはないのか?
どの部分がHISASHIの言い回しなのか?と考えてみるのも面白い。「逢いたい気持ち」という楽曲のカップリングなのだが、相変わらずカップリングで遊んだり攻めたりするなとクスッとさせてくれる1曲だ。そして、その「クスッと」という感覚は当時学生だった自身にはなかなか持ち合わせられない感情だったように思う。
歌詞の中での言葉の選択の際に、最終決定はどこで下されるのだろうか。
歌詞に意味を持たせ、そこに十分な思いを乗せてメロディーとともに音楽として届ける時、歌詞にどのような役割をさせるのかは、楽曲ごとにそれぞれ異なるだろう。
この楽曲は、Aメロの歌詞は、意味を含ませるだけではなく、歌詞を発音したときの音の響きとかがポイントになっているように感じる。ボーカルもある種の楽器であるとすれば、ボーカルも楽曲の中で「音」としての役割が求められることになる。その意味を踏まえた上での歌詞なのであれば、特にAメロの歌詞は音としてのある種の心地よさを感じる。
一方で、どういう思考の回路になっていると、あんな歌詞になるのか、それはもうどんなに考えたところで答えは出ないが、妙に考えたくなってしまう。
爛れた煩悩が 崇れたrangeで
メフィストフェレス気取り 家畜共に呪文唱える
「汝、主を敬い 危機に四肢をも生贄に 飢餓に魂を捧ぐ」
俺には確かにそう聞こえたんだ
耳コピだけでは100%の正解率を出せない。ただ、音として体に入ってしまった際には、もう細胞レベルまで浸透していきそうでもある。
そして、Bメロがまた奇怪すぎる。TERUがサブのボーカルに周り、HISASHIがメインボーカルをとるスタイルだが、ここもまた、ボーカルの発する歌詞を音として捉え、耳に残って離れないという効果を生み出している。もちろん、よくよく歌詞を噛みしめると、想像以上に深海のような深みがあるのだが、そこは最初で楽しむべきポイントではなく、聴き込んで行くうちに味わって行くのが良いだろう。
対照的なのが、サビ。ここでは、畳み掛けるように伝えたい言葉を過不足なく発している感じがする。当時もこのサビの中で訴えられていることってなんだろう?と考えたりした。「終わり無き日常の王様」という言葉には、そうあることを受け入れて胸を張れ!というメッセージが含まれていると捉えると、すごく腑に落ちる。
ある意味での皮肉としても捉えられるかななんて思ったりもしたが、今は、胸を張る方に目を向けたい。
音としての歌詞の効果と、伝えたいメッセージとしての意味。いずれにせよ、言葉だけではなく、そこに何層もの音があり、音が作り出す世界観があってこそ、言葉が「生きる」「活きる」んだなという事実を噛み締める。
サビのTERUのちょっとした息苦しさのようなものが、好き。
これこそ、GHOSTではないか?久しぶりにライブで聴きたい。