江漢、蟠桃、梅園。江戸期にみる日本の近代
第4号、池内了先生の巻頭言では、江戸時代における宇宙構造論をテーマに、多くの関連人物を紹介して頂きながら、とくに画家の司馬江漢を中心に、その個性あふれる魅力などを解説して頂きました。司馬江漢については画家ということもありますので、この機会にその絵も含めて少し案内しておきます。
江漢の功績でよく知られるものは、池内先生の稿にもありますが、やはり日本で最初の腐食銅版画(エッチング)を創製したことでしょう。とくにその記念すべき最初の作品は、「三囲景(みめぐりのけい)」という題の反射式眼鏡絵で、いったん絵に移しレンズ越しに画像を鑑賞するものです(→)。陽にきらめく川の雰囲気と、光に満たされた奥行きのある画面いっぱいの遠近構図はその当時ではまさに新奇ともいえるイリュージョンだったと想像されます。
江漢は錦絵で知られる浮世絵師の鈴木春信に入門し、その才を磨きましたが、春信の住んでいた町内の近隣には平賀源内や杉田玄白、宋紫石(楠本雪渓)も住んでいたことが、後の江漢の人生に大きな影響を与えたと言われます。とくに源内との出会いは、池内先生の解説に見られる“窮理学師”としての江漢を形成しました。銅版画を初めとする西洋画の有用性に惹かれたのも、源内との邂逅がきっかけになったであろうことは想像に難くありません。
本人の性格的な面は池内先生の稿にあるとおりですが、興味を示した分野や巧みな構図で近代的な表現をみせた洋風画や銅版画には、現代でも通用する合理性の高い視点を備えていたことがよく分かります。晩年の頃の富士図などには、新しい分野を拓き未踏の地を歩み続けたパイオニアの境地が垣間みられます。
まさに“芸術家の直観恐るべし”です。この江漢と同じく、巻頭言で紹介された山片蟠桃についても少し触れておきましょう。蟠桃については第16号でも同じく池内先生に紹介いただきました。その名の“蟠桃”とは、三千年に一度実を結ぶという伝説の桃のことですが、升屋の番頭だった本人が、その音韻をとって命名したユニークさに加え、さらに合理主義的哲学で無神論を大著『夢の代』に展開したことを逆手にとるかのように伝説の桃を名前に象徴させるあたりはこの人物の魅力を表しています。
という本人の和歌からもわかるように、商人という身分・立場のまま、神への無智な信仰やご利益への期待といった俗信にみちた一切を破砕し、徹底した合理主義をとったと同時に、早くから地動説を採用していたことも驚くべきことです。
徹底した合理主義という点で同じく挙げられるのは、第2号の巻頭言で佐藤文隆先生に紹介して頂いた三浦梅園です。その著『多賀墨卿君にこたふる書』にある以下の文を読んでも、合理主義者としての真骨頂が見られます。
江漢、蟠桃、梅園の三人に共通するものとして、本業とは別で窮理学の探求をしていたことも瞠目に値します。江漢は画家、蟠桃は商人、梅園は医者という、いわば異業種が別天地を切り開いたという点は、これからの時代を考える何らかのヒントになりそうです。
司馬遼太郎はその著書において、「江戸期の近代的な思想家たちを、明治政府は健忘症のようにわすれた」と書いていますが、上のように江漢から蟠桃、梅園といった代表的な人物を見ただけでも、本当の近代は明治ではなく江戸にあったのではないでしょうか。
とりわけ、蟠桃が学んだ大阪の懐徳堂もそうですが、後の幕末に緒方洪庵が開いた同じ大阪の適塾は、身分や学力を問わず全国から人を受け入れたことも特筆すべきことであり、また大阪という地でこうした聴講資格無制限の教育が育まれ独創的な学問が生まれたことも、井原西鶴や近松門左衛門といった文学や演劇の中心地であったことと無縁ではないはずです。
残念ながら“江戸の近代”を忘れてしまった明治維新によって、自由競争の原理が大阪の商人文化を没落させてしまいましたが、そう考えると第4号の故・亀淵迪先生が抱いていたグローバル化への憂いも尚のこと身にしみる思いです。谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』でいうところの
という想像も、時には脳裏にめぐらしてみる必要があるのではないでしょうか。鎖国という世界の情報の少ない条件下で、思想史としての日本の近代をつくりあげていった江戸時代の“窮理学師”たちを思いながら・・・。