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奇跡か必然か?「BORUTO」に見るジャンプ漫画の進化と変遷
漫画「BORUTO」の第4巻が発売された。「NARUTO」は世代的にもハマった漫画で、正直最初は本作をNARUTOの続編だからと義務感で読んでいたところはあったものの、今では毎回楽しみにしている。
今回で強く確信したのはやはり2000年から2010年代の漫画の続編であるということだ。
どういうことかこれから詳しく述べていきたい。
まず感想としては期待通りの内容で概ね満足できたし、終盤のサラダと委員長(この呼び方で読んだらスミレに怒られちゃう!)のボルトを間に挟んだラブコメ要素と、思春期の心の揺れ動きを唐突に挟んできて、これからどうなるのかという不安とワクワクも残してくれた。
ただ一つ気になったのはあまりにも設定が過多になってきてはいないか?というところだ。
誰とは言えないが、未来が視える能力者というのが現れ、ボルトに協力する展開となる。その力で、ボルトが未来で身につける術を前倒しでマスターさせたりしていたのだが、このレールに沿って動かすというか、奇跡、偶然というのを許さない展開に既視感があった。
僕と同じ年代で、ジャンプを買っていた方ならお分かりかもしれない。
「BLEACH」にそっくりなのだ。
朽木ルキアが黒崎一護に死神の力を継承するという運命的な展開を藍染惣右介の計画としたりするあの流れにそっくりなのだ。
「NARUTO」「BLEACH」あの年代の漫画はなぜか奇跡や運命というものを忌避しているように感じる。
これはおそらく、その前の世代「ドラゴンボール」「ジョジョの奇妙な冒険」などへのアンチテーゼ的な部分が一つあると思う。
戦闘力で圧倒的な差があるフリーザを倒すためにスーパーサイヤ人に覚醒する展開、ディオに勝てないために自身も『ザ・ワールド』を発現させた承太郎。この二つは確実に奇跡が起きたシーンである。
この代表的な二つの作品に勝つために次世代の漫画家たちは、作品によりリアリティを求め、説明のつく展開を作っていった。
そのことで確かに高年齢化していく漫画読者にも満足できるクオリティに仕上げていけたという側面はあるものの、自分が固めた設定によって、殻を破れずに、想像を超えてこなくなったと思う。
もちろんそれは期待はずれではなく納得ができるものではあるのだが。。。
「うしおととら」「からくりサーカス」の藤田和日郎は、自身の創作メソッドを語った本「読者ハ読ムナ(笑)」で、『読者は意外な展開で期待通りに終わる』ことがベストであると語っている。
ただ、ここには情報環境の変化と漫画読者の高年齢化というのも大きく作用していることも留保しておかなければならない。
高年齢化した読者はいわゆるご都合展開を嫌い、それをインターネットで批判するという流れがその時点でもすでに確立されていたため、辻褄が合うように慎重に展開せざるを得なくなったいったのだ。
こうして設定を増やしていったことで、それを説明するための展開が必要になり、巻数も増えていくことになったのだと思う。
前作「NARUTO」の大筒木カグヤの登場はまさに設定に辻褄を合わせるだけの存在だと思う。
そして現在の2020年代に活躍している作家たちは、2000年代のアンチテーゼとして、巻数が比較的に短く完結させる傾向にある。
動画メディアを取ってみても、映画からYouTube、そしてTikTokと、だんだん長尺のコンテンツが少なくなってきている。
20年代を代表するであろう藤本タツキ、魚豊も短編を発表したり、一作品が10巻以内で完結したりと物語を短くしていく傾向にある。
その意味で「BORUTO」は前の世代のやり方を引き継ぐ作品であると言える。
僕的には新しい作品を読んでみるフットワークが重くなっていく一方で、昔から大好きな作品が続いていくのは大変ありがたいので、「ONEPIECE」「H×H」と共に引っ張るところまで引っ張って欲しいと思っている。(笑)