きゅう
「誰も取り残さない社会」 「共生」 「多様性」
いつも、この言葉に潜むものに、疑問と矛盾を感じ、その重みに自戒します。
「誰もは誰?」 「誰と共に生きる?」 「多様性はどこまで?」 と。
誰もが共に安心して暮らせることを社会は目指してきました。
それは、障がいのある人が、チャレンジさせられ、頑張って、苦しい思いをして、やっと、安心して暮らしている障がいのない人のように生きることができる社会だったのでしょうか。
権利保障と擁護、法制度の整備は、誰ひとり排除せず、一人一人が互いを思いやりながらも、そのまま在ることを尊重される社会を実現するためだったはずです。
そもそも、社会の基準や価値観は時代と共に変化します。震災やコロナ禍で強く実感しました。
誰が健常者か障害者かなんて、明日には変わっているかもしれません。
かりそめの安寧を享受した健常者という安全地帯から見通すノーマライゼーションは浅はかな妄想でしょう。
誰も取り残さない社会の中の「誰」や、共に生きる「誰か」は、今の社会の基準や価値観をつくる圧倒的な力を持つ多数派と、それに従属する人たちだけのような、多様性はその範囲の中だけで使いまわされているような気がしてしまうのです。
そして、私もそんな社会をつくってしまっています。
誰も取り残さず、共に生き、多様な社会。それは簡単ではなく、「しんどく、いずい」ものでしょう。
それを自覚し、自分ごととし、生きていくことに幸せがある社会となるよう願いを込め、引き合う人と人とが大切に思いあう姿を、やわらかくひろがりのある球体のようにまあるく包み込む「社会的包摂」をイメージし、「きゅう」を名付けました。
名に恥じない実践をこれからも続けていきます。答えのない問いを胸に刻み、この街で。
2021.6
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