バック・トゥ・ザ

 蛍光灯がじじじ、と鈍く光る夜道だ。ジュリが歩くと、腕にぶら下げたレジ袋が寄り添うようにがさごそと音を立てた。三割びきのシールが貼られたハンバーグ弁当が傾かないように、水平を意識して背筋を伸ばす。美しい歩き方には自信があった。今はただのパートのおばさんをしているけれど、ジュリは長いあいだ女優志望だったからだ。頭に白いものが増え、それを隠しきれなくなった頃に諦めた夢は、それでもジュリの身体と心、そしてGoogleにしっかり歴史を残していた。「古永ジュリ」と検索すればいつでも、若き日のジュリを見ることができる。戻れることなら、過去に戻りたい。そう思う日は、少なくない。

 細くため息をつき、ジュリは前を向いた。一人暮らしの部屋に続く曲がり角を曲がる。すると、ぶろろろ、と大きなエンジン音を立てる車が一台、アパートの前に停まっている。今どき見ない、いかにも古風で四角い車体、デロリアンだ。あの、バック・トゥ・ザ・フューチャーにも登場した、DMCのスポーツカー。
 ジュリが二、三秒、見つめていると、運転席の窓が開いた。そこにはなんと、マーティ、つまりマイケル・J・フォックスによく似た男が乗っている。
「君、君。過去に戻りたくはないか」
 マーティ風の男は、ジュリに向かって唐突に言った。顔に似合わぬ流暢な日本語は、当事者でなければ滑稽で面白かったかもしれない。ジュリは、元女優志望らしからぬ慌てぶりでデロリアンから目を逸らしたが、その言葉の持つ甘美な響きに惹かれ振り返った。
「戻って、変えたい過去はないか」
 男と目が合う。青い瞳に呼ばれるように、ジュリは返した。
「……あります、あるわ、あるに決まってる」

 女優・古永ジュリには代表作があった。「バック・トゥ・ザ・ユーテラス 子宮に戻って」という、アダルトビデオだ。もちろん某ハリウッド映画のパロディで、設定も展開もみっともないほどB級。けれど監督が熱烈な原作ファンだったため、小道具や衣装の再現度だけはやけに高く、リリース当時はいくらか話題になった。今でも、誰かがジュリの痴態を検索して閲覧する。デロリアン風の車にしなだれかかり大股を広げるジュリが、二十年の時を超えて今でも拡散される。

「過去に戻れるのなら、あんなものには出るなと自分に言うわ。自分の未来を傷つけてまで、女優になりたいなんて思わないで、と伝える」
ジュリは、どうしてこんな怪しい男に自分の本音を話しているのか、自分でもよくわからない。憧れのスター俳優によく似ているから、それとも自分を傷つけた作品によく似たシチュエーションだから、とにかくなんでもよかった。アダルトビデオの出演歴があることや、ましてやそれを後悔していることなんて、この歳になって誰にも打ち明けることはできない。
「OK。じゃあ一緒に、二十年前の君に会いに行こう。さぁ乗って」
 男はにこやかに、助手席へジュリを促した。非現実的だとは思いながらも、長い時間をかけて胸の底に溜まった澱のような後悔が、ジュリの身体を動かす。あんなものには出ないで、秘部を秘部にしたまま大人になりたい。上に開くタイプの扉、助手席のノブに手をかけた。
 するとその瞬間、古く褪せた記憶が不意に、蘇った。前にもこんなことがあった。あれはそう、バック・トゥ・ザ・ユーテラスに出演する少し前、監督と映画話で盛り上がり、ぜひ君を主演にしたいと言われた次の夜。
 母さんはいつものヒステリックで包丁を振り回していた。あんたが神様に背いたから父さんはいなくなった、と絶叫する声は近所中に響き渡っていた。誰も通報しない代わりに、誰もジュリと目を合わせなかった。ジュリは母さんが唯一与えたネグリジェのまま玄関を飛び出した。
 ここから遠く離れたい、どんな手段でも構わない。そう思った瞬間、家の前に大きなデロリアンが停まって、監督は颯爽とジュリを攫ったのだ。田舎の土草の匂いが遠ざかるにつれ、街明かりは華やかになった。カーステレオからはパワーオブラヴが流れていた。
 母さんの子宮のようなあの家には、もう帰らない。帰らなくても良いのだ。ジュリは助手席で膝を抱いて喘ぎ泣いた。あの夜、バック・トゥ・ザ・ユーテラスがなければ、ジュリはいまだに夕飯も仕事も自分で選べなかっただろう。三割びきシールを見下ろす。歪んで垂れた乳を見下ろす。
 選んだのが、たとえこれだったとしても。自ら選んだということが、あの頃のジュリにとっては何よりも重要なことだったはずだ。
「もしかして、気が変わった?」
 固まったジュリを見て、マーティ風の男はクスリと笑った。
「……ごめんなさい、このお弁当、今夜のうちに食べなくちゃいけないんだった」
 半分開きかけた扉を再び閉める。すると男は不思議と、マーティとは似ても似つかない平凡な日本人に見えた。デロリアンの激しいエンジン音が遠ざかる。ジュリはテールランプに目を細め、平凡なアパートの鍵を回した。




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