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”ふつう”ってなんだろう。最近ずっとそんなことを考えています
この数ヶ月間、いや半年以上、”ふつう”って何だろうとずっと考えています。
宮崎に住む僕にとっては、ふつうに鶏肉の刺身(生肉)を食べるが、九州以外ましてや外国人にとってはそれは恐ろしく異常なこと。一平寿しで生まれ育った僕のふつうは「レタス巻」で、宮崎県人以外はそれは惣菜イメージのサラダ巻。通勤に1時間以上もかかる首都圏の生活は僕にとっては窮屈で絶望的な暮らしに見えるが、東京生まれの生粋の都会育ちから見れば田舎に暮らすということは想像もできない。
ふつうは、自分と他人の間に横たわっている違和感であり、違和感を無限にぶつけ合えば究極のエゴイズムが差別をうみだし戦争にさえ発展する。
世代間で違うふつうの感覚差は、その主張をぶつけ合うだけでは軽蔑の対象として溝が深まるばかりだし、斜め上から見下ろしたようなX(Twitter)での評論家による政治論争などはお互いのふつうを理解しようとするかけらも感じられない。
僕は、それぞれの生き方を背景に生まれた価値観=ふつうを語り合うことが好きだ。
受け入れられない他人のふつうでも、少なくともその在り方を「理解」することはできる。「共感」のちょっと手前、「理解」がお互いの心の間に横たわる溝を溶かしていく。
そんなことを考えていたら、鹿児島の仲間たちが何やらすごいプロジェクトを動かし始めた。「ふつうの学校」を作る!というのだ。
彼らはふつうをこのように定義する。
わたしたちは、「ふつう」=「普(あまねく=広く) 通ること」という意味で使い、どんな地域でも特別なプレイヤーがいなくても、その地域の人々の手で 子どもにとっても先生にとっても学校を取り巻く地域の人にとっても心地よい学校を作り、その過程で 普遍性の高いエッセンスを言語化していくことを目的としたいと思っています。
学校を地域という大きな生態系の一部として捉え直し、ハブとして再構築する。”当たり前”って何だったんだっけ?その問いかけを僕らは長年避けながら、地域の未来を誰かに委ね続けてきてはいなかったか?
政時や行政にとってのふつうは、しばしば市民にとっての「ふつうはこうだろう」という意思とは乖離する。誰に委ねていては高い壁は解けないし、状況は動き出さない。だから自分たちで新しいふつう(普遍性の高いエッセンスを言語化する)を作っていこうとする壮大な試み。
山の中にひっそりと佇む、美しい森の中の校舎。廃校となったこの場所を蘇らせるだけではなく、新しい学びの場として再生し、地域全体で教育とは何かを考えていこうという壮大なビジョンに心が動かされます。
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クラウドファンディングで同志を募っているので、ぜひページを見ていただけたらと思います。僕も応援しました!頑張れ!
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子供達がかつて見上げていたであろう角度で写真を撮ったら、そこには濃い緑の木々が生い茂っていました。こんな場所で育つ子どもたちのふつうには、どんな未来が待っているんだろう。そんなことを思わず考えてしまいました。
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