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仕上がっていく夫と試される妻
夫が日に日に仕上がっていく。
筋肉の話だ。
2023年春から私たち夫婦は、そろって共通のスポーツジムに通っている。ともに週2のペース。ひとつ屋根の下で生活をし、食事内容もほぼ同じ。それなのに、かたやメキメキと結果を残す夫に対し、数年連続で正月太りを繰り越す私。一体どこが分岐だったのか。
その話を口にすれば、決まって夫は「そもそも2人の根底にある、筋肉を思う気持ちがまるで違う」と話す。夫曰く、筋トレ以外の時間にどれだけ筋肉を意識しているかで結果が分かれるそうだ。いわば筋肉愛。
例えば買い物帰り。荷物をただ「重い」と、しぶしぶ抱える私に対し、夫は一つずつの動作がどの筋肉部位に効いているのかを考えて物を運ぶと言うのだ。その行為について、誇らしげに「俺は常に、筋肉とともにある」と言う。まさに愛。かなうハズもない。
恥ずかしながら私は、チョコレートを控えている反動からプロテインバーを必要以上に欲してしまうし、ジムに行けば本格的に「ンァア゙ア゙ー」とトレーニングする人を横目に「どうしたらあんな声が出せるようになるのだろう」と、筋肉とは別のポイントに謎の憧れを抱いてしまう。煩悩ばかりで、筋肉に対する誠実さがない。
一方、筋トレの魅力に取り憑かれている夫は結果が出るから、さらにトレーニングに夢中になり、今まさに好循環モード突入中。こうなったら、誰にも止められない。毎晩風呂から出ると、鏡で自分の姿を確認し、そのままパンツ一丁でリビングにやってくる。そして決まって私に聞く。「どう?」と。
どう?って……。
この答えがとても難しいのである。毎晩のことなので、当然ながら前日との変化はあまりない。それでも懲りずに夫は毎晩私に聞いてくるのだ。
こんな時に妻として、気の利いた答えの一つや二つ、パッと出てくれば良いのだが。前の説明でも分かるように、私のような表面的な筋肉愛では、そのボキャブラリー庫に筋肉用語の蓄積がない。結果、数秒の沈黙が場を包む。
その後、数日。あまりに何を言えば分からない日が続いたので、ついに私はかろうじて知っていた「腹筋板チョコ」という言葉を安易に口走ってしまった。それがいけなかった。
「そういうのじゃ、ないんだよな~」
夫はそう言って浴室に静かに戻って行った。
その日から、私はしばしば考える。私は何と言えば良かったのだろうか?そもそも、夫は私に何を求めているのか。
そこに、一つの仮説が浮かびあがる。「もしかして、夫は私を試しているのではないだろうか?」と。
文章トレーニングはその特性上、よく筋トレに例えて表現される。ひょっとすると夫は、日々筋トレに励む姿を私に見せながら、その様子から「書くこと」を連想させ、私に学びを与えてくれているのではないだろうか?
いやいや、それはない。いくらなんでも都合の良い方に考えすぎだ。しかし。そこで私は、とても大切なことに気付く。
「果たして私はあのとき、夫の腹筋が本当に板チョコに見えたのだろうか?」
考えなくても分かる。確実に見えてはいなかった。あのとき、夫の皮膚には鳥肌がたっており、板チョコの表面とはほど遠い見た目だった。だいいち、日焼けサロンに通っている訳でもない夫の上半身がチョコレートに見えるはずがない。
そう。私はあの時、自分の視覚や思考を使わずして今ある言葉に、ただ単にもたれかかってしまったのだ。なんたることか。書くことを志すなら、比喩表現を使う時、視覚や思考に実感を伴うべきではないだろうか。やってしまった。
そして、後悔とともに決意した。次に「どう?」と夫に聞かれたら、ベストを尽くそう。今の自分に出来る限りの力を出し切るのだ。これは、夫からの挑戦状なのだから。
そして、チャンスは直ぐにやってきた。
「今日は上半身を中心に筋トレしてきたんやけど。どう?」と話す夫。なるほど、上半身か。私は、夫の筋線維一本一本をも逃すまいと、つぶさに観察する。そして深く静かに息を吸い、準備を整えた。よしっ!!
「数ヶ月前までは『引き締まってきた』とか、『筋肉の筋が目立ってきたな』って感想だったけど、ここ最近はそれに加えて筋肉が肥大している印象があるよ。筋肉が大きくなってるせいか、凹凸で影まで出来ている気がする。今までとは違って、ここ最近は明らかに次のステージに入ったって感じがする」
私の言葉を聞く夫の鼻の穴が、ピクピクと動く。その表情には嬉しさを隠し切れない。
なるほど。これで良かったのか!!筋肉ボキャブラリーがない私にもできることはあるじゃないか。実感のない借りてきた比喩に頼らずとも、見たまま、偽りのない言葉で率直に表現すれば良いのか。もしかしたらそれが、言葉に誠実であるということなのかもしれない。私はニヤつく自分の表情を鏡に見ながら、洗面台で歯を磨く。すると背中から、弾んだ夫の声が聞こえた。
「その言葉が最高のプロテインや〜✨」
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