ひとりごとを対話にすること
自分をさらけ出すってなんでしょうね。私はこんな誰に聞かせる予定もない戯言を高2の春からずっと書き続けています。ひとりで。これは良いの書けたかも!友達に読んでほしい!と思ったことも何回かはあったけど、それよりも見せられない記事が多すぎて、やめました。誰も私がこれを書いてることは知らない。知らせる予定もない。それが何でもかんでも書けてやりやすいし良いなと思ってたんですが、最近noteを書いてそれをみんなに共有している同級生がじわじわと何人か現れて、なんか「うっ」となってる。
それは羨ましさでもあるし、あこがれでもあるし、下手すると優越感でもある。
書くこと、書いたものって自分の一番中心から出てきた感じがするし、それを知ってる人に(完全に知らない人なら全然良い)読まれることを私はあまりにも恥ずかしいことのように感じてしまう。
たぶん私はプライドが高いんだと思う。自覚はないけれど。すんごく良いものができた自信がある時以外は、自分の表現したものを絶対に人に見せたくないと思う。それはきっと自信がないのをプライドで固めているからなのではないかと自己分析してみたり。まあでも案外みんなそんなもんなのかもしれないけど。
そうやって思ってるからおそらくこの先も誰にも見せないんだけど、でも私が書いたちょっと共感できそうな記事、知ってる人に読んでほしいとも思ってしまう。だからそれを共有できる人たちが羨ましい。私の記事もなかなかいいでしょ〜って言いたくなっちゃう。と同時に、私のほうがずっと書き続けてるわよ、ひとりでずっとねってちょっと偉そうに自慢したくなっちゃう気持ちもある(別にすごいことではないとわかってても)
私のnoteは自分に向けたひとりごとで、顔の知らない相手が似たようなこと思ってたら嬉しいなっていう一方的なつぶやき。対して普段から密に関わる人たちに共有している彼らのnoteは相手の見える対話。今は独り言が気楽でいいけれどいつか人に読まれることを考えてちゃんと書いて、ちゃんと見せてみたいなとも思っちゃうなあ〜っていう、ひとりごと。