人類に普遍的な縄文時代の美徳(1)
人類共通の美徳(virtue)の概念は縄文人から始まっていたのではないか?
そんな風に思えるのです。
学術的な根拠にも乏しく、九兵衛個人の推測の域を出ませんが、そんな妄想にお付き合いください。
土器の存在意義が奥深い
世界最古の土器は佐世保市の洞窟から出土した 豆粒文土器で紀元前1万年頃。イラクのジャルモ遺跡の土器が紀元前6500年頃、トルコのチャタルヒューク遺跡の土器も同年代、エジプトのファイユーム遺跡も紀元前5000年頃なので、縄文土器が圧倒的に古いのです。
獣を狩猟して食べるだけの生活ならば土器は不要です。飲み水を舟に積み込む海洋民族や木の実を貯蔵する採集民族ならば必要です。高緯度の極寒地帯や砂漠などの荒地には植物は十分育たないので、日本のような食物の宝庫の中緯度地域は他にはメソポタミアやトルコ、エジプトなどの地域に限られます。
日本では世界最古の漆器も見つかっており、紀元前7000年頃のものです。次は中国で紀元前5000年頃です。
いずれも日本の縄文時代が最古であり、このような人口増加に関わる食生活の知恵が「偶然にも」世界各地で発明されない限り、日本から伝播したと考える方が自然です。
それまでの食生活の器は、仮にあったとしても、木や石を削り取って小さく整形して使うものだったはずです。しかし、土器は粘土を少しずつ増やして貼り付け目標の大きさに造形するという画期的な方法です。これによって、堅くて食べることができなかったものを「煮て」食べることができ、塩や香草などで味付けもできるので、食文化に革命を起こしたに違いありません。
さらには、縄目の紋様などで装飾を施す美的感覚も養われることになります。縄文時代の食生活は海の幸と山の幸を中心にかなり豪華だったことが分かっています。九州の上野原遺跡では紀元前7000年から紀元前5500年頃まで豪華な食事をしていた痕跡が見つかっています。
もうひとつ、土器は日干しではなく焼いて作られています。焼成温度は1950年代の東大人類学教室の論文によれば、成分分析の結果550°C前後と推定されています。粘土が化学変化を起こし始める温度は450°Cで、素焼きやレンガは800〜1000°Cの範囲です。800°Cくらいまでは穴窯は必要なく「野焼き」で大丈夫です。
後世の青銅器は銅と鈴の合金ですが、焼成温度は1200°Cくらい必要です。そのため、この時代の刃物はまだ黒曜石が中心で、信州や神津島で採集した黒曜石を日本全土の交易ネットワークで取引していたようです。
縄文人の道徳概念
同時に、このような生活は集団で地域に居住して「分業や役割分担」を促します。
怠け者であるよりも「真面目で勤勉」であることが求められ、
強欲にモノや獲物を独り占めするよりも「慈悲深く優しい思いやり」があることを求められ、
カッとなってすぐに争うよりも「我慢」をすることも重要視されます。
そして、次のリーダーになる人物には「公正さ」と「人徳・人望」が求められるでしょう。
また、黒曜石の取引などで、他の集団と物々交換をするようになると、「信頼」とか取引の「誠実さ」というものも重要視されるようになります。
つまり、「美徳 virtue」の概念が自然と形成されるのです。
後に「宗教や儒教などで体系化される『道徳の概念』が縄文時代にはすでに実践されていたはず」です。
縄文時代は「戦争のない平和な時代」であったとされており、武器も武器の使用で死んだと見られるヒトの痕跡もありません。
仮に、「他の集団を略奪し、支配するような価値観が社会の規範」であったならば、平和な縄文時代は1万年近くも続かなかったでしょう。
海底火山の大噴火がキッカケで縄文人は世界に進出
紀元前5300年頃、鹿児島の南方で鬼界カルデラ大噴火が起こります。
九州と四国は全滅状態となり、火山灰は紀伊半島にまで達したそうです。
その結果、西日本は住める状態ではなく、その地域で生き残った縄文人は日本脱出をします。
[ここからは九兵衛の推測です]
縄文人の一部は、西に海沿いに移動し、今のイラクのあたりまで辿り着きます。メソポタミア文明よりも以前のシュメール文明初期のウバイド朝第1期(紀元前5300-4700年)で海岸に集落ができ始めた頃です。
シュメールのギルガメッシュ叙事詩には、東方から来た3つの海洋民族(海の民)が国を興したという建国神話が残されています。
記述では、ディルムン、マガン、プントという言葉が出てきますが、ディルムンは現在のカタールやバーレーン、マガンは現在のオマーンの首都マスカットといずれもメソポタミア地方に入っていくペルシャ湾内の古い地名です。
プントだけは国(民族?)のような位置付けで、縄文時代のような高床式住居で生活し、後の(紀元前2600年頃)エジプト第4王朝のクフ王の時代ではプント国から黄金がもたらされたという記録が残っているそうです。
九兵衛は「鬼界カルデラ爆発後に海洋脱出した縄文人が現地の民と交流しながら西方世界に広がった」と考えており、シュメール文明の創世にも関与し、メソポタミア文明も、エジプト文明も地中海文明にも縄文人海外組は何らかの関係があったと考えています。
実際に、メソポタミア地方には日本神話と関係のある地名が多くあります。
トルコの南東でシリア北部のTakaramaタカアマとHarranハラからアマ(アムル人)、つまり高天原、が「葦原中国(あしはらのなかつくに)Ashurアシャー」とHarranハラの奥の港の国 Ur ウルまで降りてきた。このアムル人の話はニニギの天孫降臨を連想させます。
また、途中でニニギは猿田彦と出会いますが、猿田彦はサルゴン王の国アッカド帝国を連想させます。アッカドはメソポタミア南部のバビロニアの北半分で、ウルは紀元前2400-2200年の間アッカドの支配下に置かれました。
イラン高原南西部を支配したエラム人地域の都市スサの王 インシュシナク( In Shushi nak)は、Shushiがスサ、Inが神、神の名前 nakを意味し、シュメールの最高神エンリルと同一とされており、エンリルの都市Nippurニッポー(ニッポン?)の神です。これは当然スサノオです。
このように、言葉の類似性が多く見られます。
[シュメール文明との関係についてはYouTubeで詳しく説明している他の方のチャンネルがあるので、興味があればそちらをご覧ください。ここまでは九兵衛の推測でした。]
そして、このブログでも以前にシリーズで書いたイスラエル十二支族ですが、イラン、キルギス、中国ウイグルを通って(後のシルクロード)開封に辿り着き(北側ルート)、また一部はアフガニスタン、インド北部・ネパール・ブータン、ミャンマー北部を通って、昆明を経由する南側ルートで開封に合流します。紀元前600年代に開封で集結したイスラエル十二支族は、その後、日本にわたり北イスラエル王族のエフライム族が日本の皇室の祖となります。
紀元前5300年頃の鬼界カルデラ大噴火で脱出した九州地区の縄文人は、紀元前500-600年頃に西方で発達させた技術や知識を携えて、日本に再び出戻ってきたことになります。
日本人(縄文人)が地球上で最も恵まれた豊かな自然の島国の中で発展させた知恵や道徳概念が、西方の古代文明に伝播したと考えても何ら不思議ではありません。
紀元前500年頃に中国の魯国の孔子が本家筋の周王朝の規範を体系化して儒教を創始します。紀元前700年から500年頃の間のどこかで釈迦が仏教を創始します。また、紀元前400年頃にギリシャのアリストテレスが西洋哲学としての倫理学を創始します。そして、キリストがキリスト教を創始します。歴史上の四聖人と呼ばれた人たちの年代は、ざっくりと似たような時代です。
ユダヤ教に創始者はいませんが、歴史上の始まりは族長アブラハムで紀元前1700年頃と解釈されています。
仏教や聖書系宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)、そして儒教にも道徳観と美徳という点で多くの共通点があります。その意味でこれらの道徳概念は人類にとって普遍的なものであると強く考えるのです。
余談
ちなみに、自然と発展させたのか?それとも縄文人が元々高い文明の民族だったのか?は検討の余地があります。
「オアスペ」という検証不可能な謎の古文書では人類には何種類かの人類がいて霊性を持ち白か黄色に分類されるイヒンと呼ばれる人類が太平洋に存在したパン大陸で繁栄したが、この大陸が海に沈んだと書かれているそうです。イヒンは34隻で構成された船団を4船団、そして2隻を加えた138隻でパン大陸を脱出。四方に散った4船団の行方は不明ですが、2隻がパン大陸の北西部の切れ端でザ・パンと呼ばれる地域(日本列島)に避難しました。このザ・パンがジャパンの語源という話です。
九兵衛は大学では物理学専攻でしたが、このオアスペの話にはワクワクしますね(笑)
科学を信じる者には、「科学で証明された事しか信じない人たち」と「科学で真実ではないと証明された事以外は仮説として可能性を残しておく人たち」がいます。私は後者です(笑)