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お別れの日には手嶌葵の歌に抱かれたい

久しぶりに手嶌葵の歌う「テルーの唄」を聴いた。
一度聴くと、もう一度となり、更にもうあと一回だけ…を繰り返し気がつくと延々と聴くことになる。毎回。

中毒という感覚とはまた少し違う気がする。

手嶌葵の囁くような、慰撫するような声が、渇ききり痩せ細った大地みたいな心にしとしとと降って、それで、心がすっかり満たされるまで、声はしとしと降り続く。そんな感じ。


テルーの唄ほど淋しい歌はないように思う。

生き物は皆、本質的には孤独であるという事実を喉元に突き立てられる気がする。
気心知れた友人に囲まれ笑っていても、愛し合う恋人と巡り会えても、家族と穏やかに暮らしていたとて独りだ。

個人の痛みや苦しみは誰かと分け合えるようなものではない。
寄り添い、共に心を痛めてくれる人がいたって、結局のところ病老死苦は誰に代わってもらうことも出来ない。
例え愛する人の苦しみを代わってあげたいと真実思っても、叶わない。

私の叔父は、優しい人だった。
叔父が、自分が末期の癌だと知った時、私に向かって自分が天国に行く際に私の息子の障害も持っていってあげたいと呟いたことがあった。

あの日の叔父の言葉に、私はどんな反応を返したんだっけ。
私たちの未来を心配する叔父の気持ちが痛いほどまっすぐに心に響いた。
そして、叔父が近い未来、この世から居なくなってしまうという事実が現実感を持って私を襲って来て、言葉に詰まり碌な返事もできなかった気がする。

そういう、生きとし生ける全ての生命が根源的に持っている孤独に、手嶌葵の歌はアクセスをする。

テルーの唄を聴いていると、人の一生は、ビュービューと寒風吹きすさぶ中、痩せた大地を一歩一歩踏みしめるように前に向かって、こと切れるまで歩き続ける道のりのようなものなのかもしれないと思えてくる。

これは、歌詞を作成した宮崎吾朗の心象風景なのだろうか。

テルーの唄の歌詞はあまりに淋しい。
それなのに、歌に心を預けると、自分の抱えた淋しさや痛みが少しずつ慰められてゆくのが不思議である。

荒涼とした大地を孤独に歩み続けるすべての人々にとって、手嶌葵の声は、大いなる母であり、恵みの雨である。

彼女の歌には、慈しみと憐れみがある。
もっと頑張れと励ますでもなく、安易な慰めを言うわけでもなく、同情するわけでもない。
傷つき今にも倒れそうな人々へ、救いの手を差し伸べることもない。

それでも、世界の片隅で、たった独りで行き倒れ、死にゆく人がいたなら、必ずその人の元へ歌は届く。
最期の時を迎え枯れた背中に、歌はそっと触れてくれるだろうことを信じると言うか、ほとんど確信している。

私がこの世界とお別れするいつかには、手嶌葵の歌で見送ってほしいと思う。
テルーの唄は大好きな歌だけど、さすがにあまりにも淋しすぎる気がするので、「さよならの夏〜コクリコ坂から〜」でお願いしたい。

「たいたいお婆ちゃんの愛は小舟とかカモメじゃなくて、大シケの海だったよね」とか言われ笑って貰えたら本望だ。

人生を歩み切った私の魂の、傷が付いた部分を優しく癒し、私との別れに涙してくれる人たちの心をもきっとあたため、悲しみを浄化してくれそうな気がする。


歌に乗って、ふわりふわりと踊るように空へ昇って行けそうな気がする。


感じるがままに色々書いたが、淋しいときに淋しい歌を聴くとかえって心が癒されるよね、みたいなことを長々と書いただけのような気がする(笑)

久しぶりに書いた記事がこんなので変な心配をされないか不安だが、私は元気にネトフリでタイムレスプロジェクトを見て生きています。

これからも貪欲に楽しいことを探し、家族を愛し、ふてぶてしく行きていくつもりだ。
キラキラしたジュエリーもまだまだ欲しいし。

人生の本質はやはり過酷で、生き物の性は孤独であると思っているが、だからこそ愛する人たちと愛情を交換しあってたくさん笑って生きていけたらいいな。





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たいたい
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