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年賀状だけだった

年賀状に意味はあるのか

電子化の波と共に、年賀状を無くそうという声が強くなっている。

メールやSNSで一対多配信が出来る時代、紙で送る意味があるのか。

手間をかける価値があるのか。

相手にとっても、返信を強要するようで疎ましいのではないのか。

更には、郵便局員がノルマを課せられていることが発覚した。

年賀状って、良くないものなのではないか。

そんな風潮に拍車がかかる。

「結婚しました」

結婚の報告の場としても活躍するからこそ、家族の居ない単身者にとっては意味が一層薄まる。

「出産しました」
そこから始める、子供の成長の写真年賀状。

家族がある人々にとっては確かに、年賀状は一方的な意味を持つ。

けれど、所帯を持つにも関わらず、年賀状を恐怖する人々がいる。

不妊の状況下にある者達にとって多くの場合、年賀状は恐怖の対象だ。

「人の子供の写真なんてかわいくない」
「マウンティングに感じられる」

不妊の状況下で見たくないものの一つとして挙げられるのは、他人の子供だ。


不妊にとっての年賀状

私もかつて不妊という状況下にあった。

けれど私の場合、年賀状は、年賀状だけは、他人の子供の成長を素直に受け取ることができる。そのための小さなカードだった。

私には、「子共は可愛いよ(早く作りなよ)!」とか、「そんな後ろ向きだから赤ちゃん来てくれないんじゃない?!」とか、吐き気を催すような所謂「クソバイス」をかましてくる友人が、居なかった。

だから年に一度の年賀状というものは、住所を教えるほどの数少ない友人の子供も成長を念入りな心の準備の上で受け止めて返せる機会として、とても貴重だった。

もしも、「クソバイス」な人間を「友人」の枠に日常的にウロウロさせているようだったら、その上に年賀状か、と、うんざりしたに違いない。


私には友達が少ない。

昼休みの休憩所に集まった陰口と恋愛話が友人候補の大多数を占めているというなら、私は大多数と友人になれない。ならない。


地球上の限られた人類の、大多数を友人と思えない寂しさは恒久的で消えない損失だと思っていた。

しかし、軽動脈に不妊という鉄球を鎖で巻き付けて匿名の底の底へと沈んだ先で、他人の浅い脳みそを「友人」の枠に嬉々としてコレクトしていた一般的な人々が、「こんなことを言われた」と嘆き、その正体に苦しむ様を見て、痛快でならなかった。

私は、不妊になるずっと前からクソみたいに敏感で、何も信じず、浅はかな脳みそ共をシャットアウトしていて良かったと心から思った。


そんな私だけれど、子沢山の年賀状が二枚、子供の居る知人二人から届いていた。

二枚の子沢山年賀状

それは「年賀状を下さいね」と、私がお願いした二人だった。


一組は、昔の職場で職場結婚した元同僚夫婦だった。根岸夫妻とする。

当時5年程前に職場を退職して以来、連絡を取ったことはなかったけれど、ある日私は、キャリアメールからGmailアドレスへ変更する旨を一斉送信した時に奥さんが返信をくれたことがきっかけだった。

私は根岸夫人に返信の返信を返した。

「お子さんはお元気ですか。私のほうは結婚しました。良ければ年賀状を送って下さいね」

そうして、住所を交換した。


職場では、根岸氏のほうとのやりとりが多かった。「キムチと納豆を共有の冷蔵庫に入れたの誰だ私だってキムチ食べたいけど出勤の前日は迷惑かけないように絶対我慢してるのに職場で食べようとしてるの誰だ」と休憩所で私がキレていたら、犯人は椅子で狸寝入り中の根岸氏で、私の見幕を聞いて汗をかいていたのが後の夫人だったというのが思い出だ。

何故その程度の絡みだった根岸氏に、年賀状をお願いしたのか。

その時私は、自分が不妊だとは全く思っていなかった。
32歳になり、避妊をやめて受胎を待つことを開始していた。
すぐに出来ると思っていた。

「子供が産まれました」という年賀状を送る相手が欲しかったのだ。

そういった、浅はかな考えだった。

もう一組も、同じく当時5年前の元同僚夫婦だった。
彼らを赤名夫妻と言う。

赤名夫妻とは、結婚式にウェルカムボードを描き、第一子を自宅に見に行った位の縁があった。

奥さんになる美女が職場に現れた時、以前から職場に居た同僚の赤名氏と結婚している姿がすぐに閃いた。


彼はウィットに富み賢く、彼女は濡れた椿のように美しかった。

だから、「結婚しました」という報せからずっと年賀状を受け取っていた。

第一子も、第二子も花のように美しい子供で、毎年年賀状を貰うのが楽しみだった。

けれど、リアルでは疎遠にしていた。


第一子を見に赤名夫妻の新居のマンションへ訪れた帰り路のことを良く覚えている。

26歳だった。

「私は、彼らに出来なかったことをやりたい」

私は、多才な彼が心に音楽を咲かせていたことを知っていた。
バーで演奏して、作曲もしていた。
だけど、何処かで音楽に線を引いていた。
それでも、マンションの彼の個室は楽器が溢れていた。

私は、彼が手に入れられなかったものを手に入れたい。


確かにその時、そう思った。

私は、10代で出会った恋人が居て、まだ結婚していなかった。

私は恋人をずっと愛し、子供を抱ける日を夢見ていた。

大切な子供だから、稼ぎたい。
大切な子供だから、恥じない自分で居たい。カッコ良い自分で居たい。

「自分に、愛する人の子供を抱いていいと許せる日が来るまで」

自分をブーストしようと決めたのだった。

(それがなければ私は愛する人の子の若いお母さんになることが出来、あの至高のバンド時代の経験を得ることはなかったのだろう)


それから私は、個人事業主登録をしたり、バンドに入ったり、自分の心のままに動き始めた。


しかし、もがく私に引き換え、赤名氏の出世街道は華やかだった。

しがない電話オペレーター仲間だった赤名氏は、ゲーム会社のディレクターから、プロデューサー、また違うゲーム会社で地位を登り続けて、私も知る有名なゲーム製作者人と親交を深めていった。


リアルでは疎遠にするしか出来なかった。


年賀状だけだった。

それでも私は成功を夢見ていたし、子供も避妊をやめればすぐに授かると心から思っていた。

だから、知人のFacebookを見て、子供の写真に良いねを付けていた。その中には先述の、浅はかさを感じたという理由で距離を置いた元友人達も居た。


私の普段居た擦れたネットの世界では、「子供なんて生まれたら大変で不幸なことばかり」という認識が常識だった。

でも、Facebookくらいしかできない浅はか人々のその楽しそうな様子は、育児の暗いイメージを払拭するのに強力な効果があった。

Facebookは、出生率増加に貢献しているだろう。


「まだ成功してないけど30代前半でママになりたい」

「不妊クリニックに通い始めたけど問題も発見されないし、健康に赤ちゃんを迎えるための準備の妊活」

そんな、不妊への一歩を、私は知らぬ間に踏み出していた。

本当に浅はかなのは、私だった。

1年のうち364日間シャッターを閉じた

不妊の定義とは、「避妊することなく性交渉を行っているにもかかわらず、1年間妊娠に至らなかった場合」を指す。

原因があるから、不妊なんじゃない。
一年授からなかったという状況を表す症名だ。
原因がよく分からない不妊が殆どだ。

クリニックに通う半年前から避妊は行わず、3ヶ月前からは排卵日を逃さないように排卵日チェッカーを使っていた。

クリニックで、各期(排卵期、月経期など)のホルモン量を検査しながらなんと3ヶ月目、初めての受胎を確認した。

くっきりと、映る検査薬の線。
その線は、卵子と精子が受精して、子宮の絨毛に降り立ち、少しだけ根を生やした時にしか出ないHcgホルモンでしか、出ない線だった。

お腹に確かに居た。
感じたことの無い熱を感じた。
しかしその熱は2日間で消えてしまった。
エコーでの胎嚢確認もできないまま、
きつい生理のようになった。
つまり、超初期流産、胎嚢確認前流産、化学的流産(ホルモン検査薬でしかわからない流産)だった。

大切な大切な受精卵だった。

経験したことのない喪失感は、私の人生観を変えた。
その喪失感が胸を去らない中でも、一度は受精卵が着床したことを確認できた温もりを握りしめ、またの受胎を信じた。

しかし、クリニックに通い始めて半年が経ち、避妊をやめて1年経った。

つまり、私は不妊だ。

クリニックに通う妊活ではなく、不妊だった。
過去避妊をしなかった飛び飛びの期間も全て、不妊に塗り替えられてしまった。

出会ってから避妊をしていた15年不妊だったということも否めないし、最悪なのは不妊じゃなかった20代を潰して私は不妊になってしまったかもしれないことだ。きっとそうだった。

「前向きな妊活」は一転して何処かへ行ってしまった。

20代を選択してきた私自身が、「不妊の犯人」だった。お前が、出会えるはずだった私の愛する人との子供を奪った犯人か。

やってきたことを全て否定した。
好きなものを全て否定した。
好きだった音楽も聴けなくなった。

水底のようなアンビエントと、馴染みのないJazzに縋った。

Facebookも、他のSNSも遠ざけた。

年賀状だけだった。

年賀状だけだった

元々友達は少なかった。
べったりする関係には10代のうちにうんざりして避けていた。
家族以外に大切にしていたのは、少ない優しい友達と、元バンド関係の仲間だった。

私は、日々自分を責めることに忙しく、知人に傷付く暇はなかった。

そう言いたいところだけれど、数少ない友人から受けた壊滅的な言動を受けたことを鮮明に覚えている。

彼らには悪気が無かった。

先述のように私は休憩所で陰口に盛り上がる普通の人が嫌いで、凄く人を選んでしまい、結果、物凄く純粋な人、高純度な人を友人にしてしまう嫌らしい人間だ。

友人は、純粋だから悪気無く酷いことを言う。

いつもなら、彼らが悪気なく酷い事を言っても、彼らの無垢な透明感を楽しんで飲み込んでしまう。

いつものように、私は自分の不妊についてつらつらと悲哀を見せびらかすが、純粋な彼らにはそれが届かないのだ。

純粋な人達というのは大抵、私の話を聞いていない。
透明度が高すぎて透過してしまうのだと、私はそれをわかっていて彼らを好きだったはずだ。

けれど、不妊については駄目だった。
彼らには子供は居なかった。子供が居ない人の無知で無垢な残酷さだった。

純粋な残酷さは、水晶の矢尻を以って抜けることの無い、塞ぐ事の無い鮮烈な輝きを、私の心臓に遺した。

純粋で大切な私の友人を二人斬り捨てた。


年賀状だけだった。


年賀状の小さな窓の外では、遥か遠くで子供達が笑っていた。


何年も会っておらず、連絡すら取り合っていない、斬り捨てる必要の無い距離だけが私を優しく、素直にした。

一年のうち364日連絡を取らない仲だからこそ、第三子、第四子と増える写真が、心から嬉しいと思った。

それは、子供が元旦にポストを開けるのと同じくとても単純な楽しみだった。


だけど、家族写真を送る側の彼らにとっては、そうではなかった。


夫の写真年賀状は要りますか


不妊の状況にある人々の多くは、所帯を持つ人の、年賀状の密度の高さと、自らの年賀状の書くことのない落差に苦しむ。

確かに、結婚しました、子供が産まれました、美しい写真、隙間が埋まっている。溢れんばかりだ。

私はと言うと、何だかんだクリエイトすることが好きだったし、人々がIT化する前には写真を合成して驚かせるのが好きだった。

不妊だと判りつつあったある年は、自らの電子書籍の表紙を全面に印刷した。
当時流行りの漫画の表紙ロゴに似せているので、楽しんでもらえるのではないかと思った。

一年後も子供に授からなかった。
私は今度は、ITを捨て、墨と硯を用意した。
全て筆書きにした。

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家族にはなかなか好評だった。LINEスタンプにした。



更に一年後、その年に撮影した夫の写真のうちベストショットを全面に印刷した。
写真が趣味、皆は家族の写真を送ってくる、私も家族である夫の写真を送れば良い。同じだ。簡単なことだった。

もっと前から迷わずに、夫の写真を全面映しで年賀状にすれば良かったのだ。

全面夫写真の年賀状は、特に私方の親類に好評だった。

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しかし、その年の元旦には、赤名氏と山木氏からの年賀状は届くことが無くなっていた。

こちらから出した年賀状を見てから投函したであろうタイミングで届いた。

第一便で宛名を印刷するチェックが、外されているのだろう。

墨汁筆書きの年賀状に引いただろうか。
全面夫の年賀状を憐れんだだろうか。

引かれても構わない、引かれる程でなければつまらないくらいのクリエイター魂は育っているので、良い。

でも、流石に申し訳ない。基調な写真プリントで返信させるのは申し訳ない。私はそう思うべきなのだろう。

第一便から外されていることが明らかでも、私は年賀状を送ることをやめなかった。

「私には子供ができません、一枚百二十円の幸せを、どうかわけて下さい」

「一緒に集まろう!と書いてくれるのを無視してごめんね。それはとても辛いことです」

「それでもどうか、いつか子供写真の年賀状を送り合うという希望でいて下さい」

伝えなかったけど、願っていた。

第一便から外れているとわかっていながら、年賀状を送り続けた。


年賀状だけだった。


そして夏、私は子供に恵まれた。

写真フォルダは、すぐに千枚を超えた。


不眠不休の乳児育児に体力は削れ、親指を動かすと激痛が走るドゥゲルバン病になりながら、写真の年賀状を作った。

赤名氏、山木氏、疎遠にした純粋な友人を含む知人達、親類達、帝王切開執刀医の実家の病院などに向けて印刷した。


投函する直前に、赤名氏と山木氏への年賀状を抜いた。

年が開けて、引っ越しをした。

転居の報せも、彼らには送らなかった。


私は、リアルに集まりたいという彼らのメッセージをことごとく無視していたし、忌避される理由はある。

一方的な願いだった。

私にとっては、会わない距離感だからこそ、家族写真の年賀状に希望、ハレを貰っていた。

どうもありがとう。

幸せが永久に続くよう、祈ってる。遠くから。


命の分母

年賀状だけだった。


子供が産まれてから、年賀状の別の意味を強く感じる。

喪中のお知らせの重さだ。

私は若い母親にはなれなかったけれど、今とても恵まれている。

娘の祖父祖母が揃って元気だということ。

こんなに恵まれていることはない。

初孫を見せる前に、双方両親の誰かが死んでしまったらどうしようという恐怖は重かった。特に夫は、愛情深い人たちの一人っ子だった。

誰がいつ死んでも後悔する。
だけど全力で、小さな娘とその祖父母に明るい時間を過ごして貰えるようにと思っている。

だけどこの恵みは、有限の恵みだ。

人の書く誰かの病や、死を、読む度に何かが積み上がる。

焦り、恐れ、積み上がらなかったら後悔が深まるから積み上がるべきものだけれど、それらは年々大きくなってゆく。

私の残り時間という分母が減って行くからだ。

喪中の報せに、顔も知らない人に思いを馳せる。

喪中ではない、ということの有難さを胸に抱き締める。


効率が大好きで、ITが好きで、非効率も物質も手書きも嫌いだった若い私は年賀状は無くなっても良いと確かに言っていた。


今、年賀状はスマホのみでデザインし、注文までできる。

遠くの親類と無事を確認し合う。

全てを切り離してしまいそうに弱った時、年賀状という細い糸だけで繋がる。

私は年賀状がこれからも、あれば良いと思う。

例え世界が喪に服しても

送りたく無い時には送らず、送りたくなったら送れば良い。

返信が面倒なら返信しなくて良い。

赤名氏も、根岸氏も、連絡を取ろうと思ったらいつでも取れる。また年賀状を送ってみても良い。

常に、世界中の誰かが喪中で、世界中の誰かがお目出度だ。

年賀状に倦んだ時、世界の喪について思う。

twitterの誰かが苦しんでいるのに、それが確かに目に触れているのに、どうして明けましておめでとうと言えるのだろうかと。

例えば、自分の身の周りに喪があれば服すのに、どうしてネットの誰かの喪には服さないんだと。

その差別が嫌になる瞬間が、誰にでもあるのではないだろうか。

その時君は神に近いと思う。

それで良いと思う。

私は子を持つ猿だ。妊娠出産で、まずは猿なのだと思い知らされた。

目の前の子供より大切なことなど無い。

例え世界中が喪に服しても、ただ一人娘に全力で新年の祝福を贈るだろう。


博愛と効率に欠く年賀状という風習が、私にとってはいつしか重要になった。

単純にそういう年齢なのだと思う。



そして、大晦日のネットの海の泡沫に紛れて、少しだけの博愛の飛沫を浴びる。

どうか、良い新年を迎えられますように。




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