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キルギスからの便り(39)カーシャ
砂糖で甘く味のついた白いご飯、というとどんなものを想像するだろう。
多くの日本人は「甘いご飯なんて食べられない」と思うかもしれない。大福や求肥など米が和菓子に加工されたら平気で食べるのだが…。
私が働いていたキルギスの学校では、昼食とともに朝食も提供されていた。児童・生徒は登校後すぐあるいは1時間目の終了後に食堂へ向かう。
メニューは9割がたが1杯の「カーシャ(каша)」だった。カーシャはロシアや東欧などで広く食べられる粥のことで、旧ソ連だった中央アジアでもポピュラーな朝食だ。米や麦、そばの実、キビなどの穀物を牛乳や水、砂糖で甘く煮てある。ミルク粥と言えば分かりやすいかもしれない。
単純な味付けではあるが、穀物の種類によって風味や状態は違う。米や細挽き麦だと粘度が高くどろっとしているし、そばの実やキビだと粒の形がもっとしっかり残っている。これは学校の食堂のものがそうであっただけで、米でもさらっと仕上げたり、そばの実でもどろどろにすることはできるだろう。
キルギス国内を旅した際に泊まった宿では、汁気がほとんど残っていない、それこそ粥ではなく「甘いミルクご飯」のようなカーシャが出されたこともあった。各家庭の好みによって多種多様なカーシャがあるかもしれない。
そしてキルギスの人々はどんな料理であってもパンを一緒に食べる習慣があり、カーシャの場合も例外ではない。穀物の粥なのだから栄養は炭水化物が主であり、パンまで食べれば炭水化物過多だと思うが、そういう理屈は必要ないらしい。
私は当初、カーシャを積極的に食べたいとも思っていなかったが、比較的好ましく思っていたのはキビのカーシャだった。黄色い粒がかたすぎず柔らかすぎず、穀物自体の甘みも牛乳に合っている気がした。一方で米のカーシャには美味しさを感じられなかった。
粥が甘いという点ですでに若干の抵抗がある上に、その中身が米となると違和感をぬぐえない。白いご飯は純粋に水だけで炊いて、嚙むことで本来の甘みを引き出し、おかずとともに食べるものだと認識して生きてきたせいか、砂糖と牛乳のからんだ状態で口の中に入れるのはあまり気持ちの良いことではなかった。
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しかし今春のキルギス滞在中、ご飯へのそんな固定観念は変化し、朝食に食べるどの種類のカーシャにも良い印象を抱くようになった。きっかけは体調を崩したことだった。
キルギスへ着いて10日程が過ぎてから、喉の痛みが始まり、その数日後に39℃近くの熱が出た。丁度週末で学校の食事もなく、買い物にも行けず、食料もほとんどない部屋のベッドの上で耐えていた。熱は2、3日で治まったが、体力が落ちて疲労感が残り、喉の痛みは続いていた。
そんな病み上がりの朝食に米のカーシャが出た。しぶしぶ食べ始めた。そして気付いた。積極的に目の前のカーシャを食べたい、口に入れたいと思っているのだ。米、牛乳、砂糖、どの栄養素も自分の体が欲しているようだった。熱すぎずぬるすぎず、適当な温かさも心地よかった。単純に言えば「美味しい」と感じた。
体に負担をかけずに栄養を摂れる食事として、カーシャは理にかなっている、と納得した。弱っていたからこそ受け止められた、その国の食べ物の良さである。
その後いつの間にか、当然のことのようにカーシャとパンを並行して食べている自分がいた。
郷に入っては郷に従えではないが、郷に入っては郷の食べ物、食べ方に馴染もう、とカーシャが教えてくれたようだ。