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キルギスからの便り(40) 鉄道
線路は続くよどこまでも―
そう、大陸を走る鉄道は果てしない。キルギスの鉄道はモスクワまで続いている。島国日本で育った私には、壮大さを感じずにはいられない。
が、実際のところキルギスにおける鉄道の存在感はきわめて小さい。
人々の日常の足は「マルシュルートカ(маршрутка)」と呼ばれる乗り合いバスか自家用車で、生まれてから一度も鉄道を使ったことがないという人も多い。
首都ビシュケクの中心部から少し南にある中央駅(正式には中央駅という名前ではないが、便宜上こう記した)は、ソ連時代に建てられたとあって建物は立派だが、日中、構内はがらんとして駅関係者以外はほとんどおらず、利用頻度が低いことは一目瞭然である。
私が住んでいたビシュケク近郊の町でも、時折汽笛の音が聞こえ、貨物列車が走っている風景を数回、目撃したことはあったが、客車が通る様子は一度も見たことがなく、むしろ線路上を人がのんびり歩いている姿の方が多かった。
影の薄い鉄道とはいえ、住んだからには一度は利用してみたい。
過去2年間、お隣ウズベキスタンでは高速鉄道の旅を経験したのに、肝心のキルギスでは乗れずじまいだったので、今春の渡航時には、必ず列車に乗ると決めていた。
できればビシュケクからイシク・クル湖まで乗りたかったが、6月中旬から9月初旬までの期間限定の運行なのであきらめ、居住地カントから首都ビシュケクまでの短距離で乗ることにした。
駅へ行って切符を買い、乗るだけだが、簡単には実行できない。
まず発車時刻が分からない。周囲の人に聞いても誰も知らないのだから、自分の足で調べに行くしかない。
学校から徒歩で25分程のカントの駅へ行ってみた。静まりかえった駅で、時刻表を探すと…あった。18:35/18:37、06:10/06:12。
これだけだ。実にシンプルである。
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ビシュケク発の列車が18:35にカントに着いて18:37にトクマク(カントより西にある町)へ向かって出発。トクマクから来た列車が6:10にカントに着き、6:12にビシュケクへ向けて出発する、という意味らしい。要は朝にビシュケクへ向かい、夕方に戻ってくる1日1往復だけである。
さすがに早朝からビシュケクへ行っても何もすることはないので、適当な時間にマルシュルートカでビシュケクへ行き、用を済ませて帰りだけ列車に乗るのが現実的である。ではビシュケク発カント行きは何時発だろう。
切符売り場のガラス窓越しに座っていた女性2人に声をかけた。いぶかしげにこちらへ顔を向けたので、私はビシュケク発の時間を尋ねた。
すると、返ってきた答えは「知りません」。
知らない?「正確な」時間は知らない、ということだろうか。
そうであれば時刻表なりを見て調べてくれそうなものだが、そうはしない。とにかく知らないと言うだけだ。日本の常識に照らせば、各駅の発着時刻はどの駅でも分かるはず。時刻表はないのか。
仕方がないので質問を変えた。
「ビシュケクからカントまでは、列車でどの位の時間がかかりますか」。
所要時間を引けばおおよその発車時刻は推測できるからだ。
ところがこれまた「知りません」。2人は顔を見合わせて「どれ位だろう」と苦笑いしている。
彼女たち自身が列車を使ったことがないらしい。そして「マルシュルートカだったら40分程かな」と言う。
それなら私も知っている。聞いているのは列車での時間だ。
乗客へのサービスの質が云々というより、このような体制でも列車が運行できていることが不思議だった。
各駅で発着時刻が共有されていなくても、係員が所要時間すら知らなくても、この国では、何も問題は起こらないのだろう。
朝夕しか列車が来ない駅にいるあの2人の係員は、日中、どんな業務をしているのかと思いつつ、駅をあとにした。
2週間程してビシュケクで友人に会う用事ができたので中央駅へ寄ってみた。夕方の発車時刻を確認するためだ。写真を撮らなかったので正確には覚えていないが17:35~17:40前後の発着だったと思う。列車では約1時間かかるということか。
マルシュルートカより列車の方が速いと思っていたが、そうでもないらしい。その日は早めに帰宅したかったので列車を待つことなくマルシュルートカで帰った。
その後もビシュケクへ出る機会は何度かあったが、時間の調整がつかずに乗車を見送り、キルギスを離れる3日前になってようやく実現できる日が来た。
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駅の入口で荷物を金属探知機に通し、窓口で切符を購入した。渡されるのはスーパーマーケットのレシートと同じ薄い紙1枚だ。マルシュルートカより若干安い20ソム。日本円にして約32円である。
キルギスでも近年は食料品などほぼすべての物価が上がっているが、公共交通の価格は今でも安い。
屋根の無い青空のホームへ出るとすでに手前右側に列車がとまっている。これかなと思って近くにいる駅員らしき人に聞くと「違う。まだ来ないからホームのそっち側で待っていて」との答えだった。
そっち、というのは同じホームの左側の方だ。ベンチに座っている人や行きつ戻りつ歩いている人など、列車待ちとおぼしき人が何人もいたから、そこで待つことに間違いはないのだろう。
だが右側にとまっている列車がすぐにでも出発しない限り、このままだと、私の乗る列車は左から入ってきて、停車中の列車の手前で止まって、引き返して出発することになるのか。どうもおかしい。
発車時刻が近づいてきた。すると待っている人達がぞろぞろと移動を始めた。どこへ行くかと思えば、ホームから線路へと下りていった。そして右側に列車が停車している一番手前の線路上を通過して2番目のホームへと上るのだった。
跨線橋がなく、枕木や砂利のひかれた線路部分を直接歩いてホーム間を往来するのである。首都の中心の駅でありながら、いかにものどかだ。
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直後にボッボーという汽笛が聞こえて、遠くから白く輝くライトが見え出した。列車が近付いてくる。身を乗り出しそうになっていた私に、駅員が「前へ出ないで」と声をかけてきたので、一歩下がった。
列車がホームに入ってきた。青塗りでソ連時代から使われていそうな客車だ。見上げる高さでかなり大きく、結構なスピードで進入してくるので風圧も感じる。駅員が私に注意を促したのも道理だった。
停車した列車に乗り込んだ。座席は向かい合って座るタイプで1対ごとに壁で仕切られている。通路の進行方向左側には小テーブルをはさんで1人ずつ向き合う2人席、右側にはテーブル無しで長椅子が向き合った4~6人席が配置されている。
乗客の数はそれ程でもなかったが、長椅子席をひとりで占領して寝そべっている人も多く、ほぼすべてのコンパートメントに人影があった。
通勤や買い出しなどで毎日か定期的に乗っているのだろう。皆、慣れているようだ。鉄道利用者が一定数いるのだと認識をあらたにした。
身を横たえたり、小テーブルで食事ができる半コンパートメント式ということは、モスクワまで行く長距離列車としても使われているのかもしれない。
汽笛を鳴らしながら列車は動き出した。それほど速いスピードではない。
線路はビシュケクとカントを結ぶ幹線道路より少し南側をほぼ並行に走っており、マルシュルートカから見えていた景色の「後ろ側」が見える。
「後ろ側」という表現は語弊があるが、現代の街のつくりは道路側が表の「顔」となるように看板が立てられたり、住居が建てられることが多いから、鉄道側からは飾られていない雑然とした景色が目に入ることになる。
ビシュケクには高層ビルが立ち並んでいる訳ではないので、中心部でも空は狭くないのだが、それでも郊外へ向かうにつれて遠方の山まで見渡せる位に視界が開けていった。
おどろくほど感動的でもなく、ある程度予想はできた風景の流れだが、明らかにマルシュルートカの乗車時には感じられない心持ちになった。
なんと言っても車内が広く、乗客同士が離れているので視線を自由に動かせるのが良い。マルシュルートカだと運が悪いと立ちっぱなしのすし詰めで、人の肩や背中、天井ばかりが見えていることもあるし、空いていたとしても、バスの車窓からの眺めには限界がある。
ビシュケクを発車後、数か所で列車がとまり、乗客が少しずつ降りていったのだが、停車時の車内アナウンスは特になかった気がする。
カントに着いたとおぼしき時刻は18:25過ぎで、たぶん1時間までは列車に乗っていなかった。時刻表の18:35 より10分程早く着いたことになるが、停車時間を長くして調整するのだろうか。
降車後の乗客達は、駅へは向かわず、ビシュケクでの乗車時のようにホームから線路へ降りて直接帰路についていたので、私もそうした。
キルギスで初めての小さな鉄道旅は終わった。
正直な感想は「まあ、こんなものか」。そう、それでいい。
「こんなに楽しいなら、もっと何度も乗っておけば良かった」などと後ろ髪をひかれないためにも、ほどほどの満足で終わるのが最適解だ。