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東北暮らしが面白い#1

東北に生まれて、東北で育ち、きっと東北で一生を終える。
東北が大好きで、東北の歴史や文化、暮らしのことをもっと知りたいと思って勉強すると、すごい世界が広がっていました。
そこで、不定期ではありますが、私が東北の暮らしから感じていることや、調べていること、勉強していることなどを少しずつですが、私なりにお伝えしていきたいと思います。

蝦夷の英雄アテルイ

山深い東北に伝わる山岳信仰とアイヌ文化に最近すごく興味を持っています。なぜなら、東北の文化を語る上で、アイヌ文化や精神性は非常に大切な要素になるからです。
岩手県や宮城県北周辺は奈良、平安時代まで、蝦夷(エミシ)の領土であり、その文化は今も色濃く残っています。岩手県南では、朝廷軍と戦ったアテルイが有名ですよね。この時代の東北の人々はアイヌ語使っていたようです。その証拠に、アイヌ語の地名が東北各地にあります。
世界遺産平泉の文化にもアイヌの風習や慣行が影響しているほどです。

悪路王首像

アテルイの時代
 奈良時代の神亀元(724)年に多賀城に国府(律令制度で一国ごとに置かれた国司の役所。国衙(こくが)ともいわれる)と鎮守府(蝦夷を鎮撫するために陸奥国に置かれた官庁)が置かれ、朝廷による宮城県北以北の本格的な支配体制づくりが始まると、エミシとの緊張関係が強まります。朝廷は陸奥国の北上川流域に桃生(ものう)城、内陸地方に伊治(これはる)城、出羽国に小勝(雄勝)城を造営し、支配地を広げていきます。これに対して、多賀城創建前後にはエミシによる陸奥按察使(あぜち・諸国の行政を監察した官)や国司大掾(だいじょう)などの朝廷官人の殺害事件、宝亀元(770)年には国府側に協力していた宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみうくつはう)の反乱、宝亀5(774)年にはエミシによる桃生城攻略事件などが起こり、エミシと朝廷との関係は最悪の状態に陥りました。
 延暦5(786)年、朝廷の胆沢(いさわ)遠征の準備が始まります。動員された朝廷軍は5万人以上、桓武天皇から征東大将軍を命じられたのが紀古佐美(きのこさみ)でした。延暦8(789)年に多賀城を出発した征東軍は衣川に到着、巣伏村(すぶしむら・現在の岩手県奥州市)目指して進撃を開始しました。これに対したのがエミシの首長、大墓公阿弖利為(たものきみあてりい、または阿弖流為(あてるい))と、盤具公母礼(いわぐのきみもれ)、アテルイとモレです。
 史上有名な「延暦八年の胆沢合戦」は陽動作戦が成功し、エミシ側の勝利に終わります。大敗した朝廷軍は翌延暦9(790)年、第2回胆沢遠征を準備。この時、征夷副使に任命されたのが坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)でした。延暦13(794)年から始まった第2回遠征で損害を受けたエミシ側は、延暦20(801)年、陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守兼鎮守将軍で、征夷大将軍に任命された田村麻呂に完敗を喫します。アテルイとモレは、翌延暦21(802)年に田村麻呂が造営した胆沢城(いさわじょう・奥州市)に投降します。京に送られたアテルイとモレは、田村麻呂の必死の嘆願にもかかわらず、河内国椙山(すぎやま)で斬首となり、エミシの時代に幕が降ろされました。

いわての文化情報大辞典より

アイヌの精神性が残る場所

ここ岩手県一関市の祭畤山頂上付近には巨石の石積みがあり、縄文時代の祭禮の場所でした。縄文遺跡の「まつりば」を意味するアイヌ語が転じて「祭畤(まつるべ)」になったとされています。祭畤は縄文文化の聖地だと感じている人もいるほど、アイヌ、蝦夷、縄文の文化が色濃く残る地域でもあります。

en•nichiの山シャツを着て、山仕事に向かう

祭畤(まつるべ)
「まつるべ」とは「神を祭る庭」
という意味であり、昔、マタギの人たちが山神を祭った所だったといわれており、ちゃんと筋が通っている和語地名だということになります。
しかし、ここにいささか気になるところがあります。
気になるところと申しますのは「畤」という字の意味は「祭りの庭」ということですが、その読みの方は「し」か「じ」であって「べ」と読ませるのは無理だと思われるので、和語の「辺(べ)」の代わりに強引に当てた当て字だとも考えられるのです。
そこで、さらに、ここで一歩踏み込んで考えると、「まつるべ」の語源は、次のようなアィヌ語系の古地名だったのではないか…ということになります。
「まつるべ」の語源は、=アィヌ語の「マク・ツ・ル・ウン・ペ(mak・tu・ru・un・pe)」→「マクツルムペ(makturumpe)」で、その意味は、
=「奥の・尾根の・道・そこにある・者(所)」
になります。
そして、この場合の語尾の代名詞「ペ(者)」は何を指すのかと申しますと、それは「祭場のある所」を指しており、その「祭場のある所」というのが、つまり、まつるべ山の尾根の頂上だったと考えられるのです。
古代の「まつるべ山(989.6m)」は、聖なる「チ・ノミ・シル(我ら・祭る・山)で、その尾根の頂上には幣壇が飾られていました。そして、そこから尾根伝いの道が東西に走っていたようです。
「マク・ツ・ル」というのは、そのような「奥の・尾根伝いの・道」のことだったと思います。
つまり、「まつるべ」の地名の正体は、先祖のアィヌ語にも精通し、しかも、新しい和語の知識にも明るかった平安時代あたりのエミシ系の村長クラスの人物か誰かがいて、そのような人物が、元のアィヌ語地名を大事にしながら、新しい時代の和語でもその意味がおよそわかるような配慮のもとに、このような漢字表記の「祭畤(まつるべ)」の地名をつけたのではないか…と考えられます。
なお、「まつるべ」の地名は尾根の上の「まつるべ山」だけではなく、尾根の下の沢に「まつるべ」の地名としても見えますが、尾根の下の地名の方は、冒頭に示したとおり、マタギの人たちが「まつるべ山」に入山する時に山の神を祀って入山の許しを乞うと共に、応分の獲物を分かち与えて下さるように祈った斎場があった所と考えられ、それはそれとしてたしかな事実だと思います。

随想アイヌ語地名考より

マタギ、アイヌ、山岳信仰、盆地宇宙、民俗芸能、民芸…
私の中の最近のキーワードでもあります。
そんな目で地元の文化や地名を見ていると、昔々の人々の息吹を感じずにはいられなくなるのです。

縁日では、自然と共に暮らすことが当たり前の東北で生まれた民芸品や暮らしの道具を紹介しています。


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