インターネットがもたらしたもの
インターネット前夜。パソコンとの出会い。
はじめてのインターネットがどんなものだったかは正直覚えていない。
ただ父親が買っていていつの間にかリビングの端に置いてあったパソコンにはWindowsMeが入っていたと思う。今考えると実にクソみたいなOSだ。でも当時は「なにMEって? 98とか95とか数字じゃないの? めちゃカッコいいじゃん!」と僕は思っていた。
ちなみに学校のパソコン室に入っていたWindowsは2000とかXPだったと思う。当時最新はXPだったから、友だちの家のWindowsはXPらしいぜと仲間内で言い合って羨ましいなぁと思っていた。何ていうか僕らの一世代前に当たるファミコン時代みたいだ。
よくファミコンを買ってもらおうとしたら親が間違ってセガMarkⅡを買ってきたとかネタであるけれど、あれのWindows版だと思ってもらったらいい。僕はMEで育って、しょっちゅうブルー画面になってフリーズするあのポンコツっぷりがいつの間にか好きになっていた。だからXPにわが家のパソコンもアップデートした時はちょっと悲しかった。さよならME、と口には出さなかったけどお別れを告げたと思う。
それからXPになってちょっと快適になっちゃったから、僕はインターネットでチャットなんぞを楽しむようになった。思えばアレが初めてのネッ友との出会いだったと思う(今じゃネッ友なんて言い方も死語だろうか)。
初めてのチャットはリアルじゃなかった
HN(ハンドルネーム)はもう覚えていないけれど、あの頃は確か数人の人が集まってるフリーチャットで話してたと思う。そこには女の子もいれば男の子もいて、おっさんもいて、おばさんもいた。……もっともネカマが混じっていたとすれば真相は怪しいが(もちろんその当時の僕はネカマなんて言葉は知らなかった)。
チャットとはいえ人と話すところだから挨拶ぐらいはちゃんとしていたけど、話し言葉はどちらかと言えばタメ口8割、敬語2割ぐらいで、正直言ってカオスな空間だった。
それは楽しかったけど、だからって彼ら彼女らと友達と言われたら僕は正直なところ微妙な感じだ。あれはあくまでもネットの中の世界での出来事で、僕のリアルはちゃんと現実世界にあった。まだSNSなんてものが普及していない時代だったから、どこか僕の中ではネットはネット、リアルはリアルと区別している意識があった。
つまりゲームの延長線上にインターネットはあったのだ。
NPC(ノンプレイヤーキャラクター)とまでは言わないまでも、そこに在るのは非現実的な存在の「キャラクター」であって、僕にとっては「人間」という意識はなかった。それが良かったのか悪かったのかはよく分からない。ただ今でも僕はどこかネットに自意識を離した感覚を持っているのはそういうところが関係しているんだと思う。
僕は生の人間同士での身体感覚のある繋がりが現実だと思っている。もちろんそれは本物か偽物かみたいな単純な話ではなくて、僕の中に根っこの部分として存在している感覚なだけだ。
感覚ってものは世代によって大きく違うだろうと思う。個々人でさえ乖離が激しいときがあるんだから世代間の違いがあればなおさらだ。僕がビックリしたのは今の10代前代ぐらいの子たちの間でLINEでイジメにあったり仲間外れにされたりするってのが当然のようにあるっていう事実だ。
あいにく僕はそういうのはよく分からない。そもそもLINEをそんなに頻繁に扱わないってのもあるけど(電話のツールとしては便利なんだけども)、そこを介した繋がりってものはどこか現実離れしていて、まるでネットという壁を挟んで、お互いが見えないのに、あたかも壁に描かれた相手のイメージやイラストを相手に本気になって怒ったり悲しんだりしているように思えるからだ。
それは今の10代の子たちからしてみればすごく大変で逼迫した出来事だろうなという同情もあれば、どこか滑稽にも感じるところがある。壁に描かれた絵に怒ってどうするんだろう? 本気になってどうしたいんだろう? そこに描かれているものは本当に君の見ている相手なのか? その真意や言葉は本当に君の受け止めている通りのものなのか?
そんな疑問が湧いてくるのである。
……まあ、ちょっぴりおっさんに近づいてきている僕の戯言であって、たわごとに過ぎないのだけれど。
これは性格ももしかしたら関係しているのかもしれない。どうせ他人とは100%分かり合えない――というと白状に聞こえるけれど、だからこそ僕らは協調して、助け合って、補完し合って生きていく性質があるし、むしろそれは希望の一種なんじゃないか、って僕は思ってる。
100%分かり合える幻想がないなら、可能な限り、出来る限り、僕らは相手を理解しようと、自分の誤解を誤解のままにしておかないようにしようと、つまりは努力するはずだ。逆に分かり合えるか分かり合えないか、の二択だとしたら(まあ、現実って厳しいから本当に分かり合えねーよって時もあるんだけどね)、そこには判断や評価しかなくて、分かり合う努力は失われてしまうんじゃないか、と。
まあそんなことを僕は考えたりするわけである。
インターネットはどこへ行くか
話がややこしくなってきた。
つまり僕が何を言いたいのかっていうと、インターネットってあくまで技術であってツールだから、それとの関わり合いは人それぞれだし、感覚も、価値観も、考え方もそれぞれになっちゃうよ、ってことだ。
たとえば僕らのずーっと前の世代、戦争中の日本なんかでは武器は正義だったろうし、それこそ核爆弾を落とした頃のアメリカは「核こそ戦争を止める最大の手段だ!」なんて思っていたかもしれない(分かりやすくするために極端に言ってますよ、あしからず)。
でも今の僕たちからすればそれって「何言っちゃってんの?」って感じだろうし、核なんてもってのほかじゃん、って思っちゃう。わずか半世紀ぐらいでこんなにも感覚が違うんだから、そりゃあ10代の子と僕らとの間でさえも大きく違ってくるだろうな、って僕は思う。
だからちょっと若い子の話を聞いて「うぇ?」って思うと同時に「面白いなぁ、それ」とも思っちゃって、もっともっとそういう違いを知りたいとも感じるのだ。
で、そういう時にこそまさに役に立つのがインターネットである。
僕は少なくともインターネットで「世界中の人がその気になれば一瞬で繋がれる」という点においては革命的な文化を生み出したと思うし、それには多分どの世代でも関係なく異論はないと思う。
だからそこだけは、すごい利点なんだ。
もちろん同時に「リアルの世界も巻き込んでしまう」っていう世代があらわれて困ったデメリットにもなってるけど、僕は道具(ツール)においては良い面を出来るだけ見ようと思ってる。
きっとこれからもインターネットはすごい拡大を続けていくんじゃないかな。
そして同時にまた新しい技術とかが生まれて、また感覚の違う次世代のチャイルドたちが産まれてくるんだ。
でも僕らは人間だから。
きっと分かり合おうと努力することは、ずっと続いていくことだと、僕は願ってるよ。