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幻想を…

(これは、2019.3.27に別サイト上に記したもので、「狐目」事件(?)のその後に綴った、京タロ考察記である。)


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 稲荷奇譚“狐目”が、「読み物として面白い。」と何人かに言われることがあり、…蓼食う虫もなんとか、だなと他人事のように思う今日この頃である。( ←喜んでいる)
狐目症状はあれから度々繰り返している。
そして、今じゃ当たり前のように稲荷へ通っている。

ミケ氏がブログで書いておられる「勾玉の帝」について、スッキリしたはずが、まだまだ幻想を悟るには至らないようで。
いや当然か、悟りは生涯続くもの。

一番新しいリーディングで、今までにない感覚があって、上手く言葉に出来ないのだが、読めたとも読めなかったとも違うおかしな氣分。
勾玉の帝についてミケ氏に質問をして、それからその答えを今度はわたしからミケ氏に伝えるという伝言ゲームのような現象が起きた。
(詳しいリンク先として、ミケ氏のブログ記事がありましたが、今は無くなってるので詳細載せられませんが…)

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伝言ゲームの発端、はじめの答えはこのやりとり。↑↑



そしてこの二人のやりとりをミケ氏の書き物として俯瞰して読んで、そうしてわたしはまた氣付いてしまった。
そのリーディング、わたしが読んだのではなく、クライアント自身が読んだのだ。
わたしは言わば、そこに居合わせただけ…。


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赤穂浪士、大石内蔵助が描かれた「稲穂の帝」。
歴女であったためとても詳しく内蔵助のリーダーの才について話してくださった。
めっぽう歴史が苦手だったわたしにとっては初耳だらけの話で、内蔵助に限らず、世のリーダーというものにはさまざまタイプがあって、彼女は内蔵助タイプに惹かれるのだと。
それは偏った見方かもしれないと笑って話してくれたが、正解不正解はどうでも良く、彼女自身が明確に好ましいリーダー像を抱いていることにこそ意味がある。

そうして二、三日経って、ミケ氏がブログに記事を起こして下さったのを拝見し、最新のリーディングはおかしな氣分だったなぁと思いを馳せ、ぐるぐると頭の中で連日の事を巡らせていると、勾玉の帝がまた沸々とわたしの前に現れた…。


 「幻想を悟る。」


勾玉の帝(浦島太郎)は、開けてはならぬと強く言われた玉手箱を開けてしまい、老人になってしまう。

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 太郎は、知っていたかもしれない。
 開けてはならぬ意味を。

 自分が見た龍宮城は、乙姫は、まことであった。
 だが今、目の前にもどこにもそれらはない。
 わたしが在ると言うしか存在しえない幻である。
 わたしが無いと言ってしまえば、無いのである。
 あゝまことであったはずなのにどうしてどこにも無いのだ…。
 玉手箱は確かに此処に有る。 
 幻の証拠は、開けてはならぬ約束で成り立つ。
 わたしの願い叶え給う…姫よ、どうか許しませ…。

 

彼女は知っていたのだ。
大石内蔵助の生き方は自分自身の到達点だと。
わかっていなかっただけで、知っていた。
いや、これは、彼女に限らず皆に言えることでもあり、皆一様に己の神話が眠っている。
在ると言えばあり、無いと言えばない。
ただそれだけのことなのだ。
ただそれだけのことなのにどうしてこんなにも心が動かされるのか!
幻想のままにしておくのか、幻想として「知る」のか…。
  

浦島太郎は玉手箱を開けてしまった。
そうして彼は、幻想であったかもしれない龍宮城を、幻であったかもしれない乙姫を、煙の中に確かに見たのだ。
ほんのひと時の幻想は、悟れば永遠になる。

 
 勾玉の帝 「幻想を悟る」


実に儚く、酷く淡いこの勾玉の帝のカード。
この世の究極をまるで幻想のように説いている。


歴女の彼女は、幻想(本質)を自ら見抜いた、というわけだ。


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この時、「勾玉の帝」について掘り下げて探究していたのだが、未だ勾玉の帝は、わかるようでわからないところをフワフワと通過している。
急にわかったり、急になにもわからなくなったりする…。
幻想を悟るとは、器(己)のコンディションで出来たり出来なかったりするのである。だから、龍宮城へ行ってしまうし、行ったものの帰りたくなるし、帰ったものの、開けてはならぬ玉手箱の中身が氣になり、開けてしまうのである…。

わたしたちの行いは、常に危うい。
危ういからこそ、一切ブレない、変わらない、動かない、ただ在り続ける「本質」を見つけて掴み取ることが困難なのである。
逆説すると、簡単なことを自ら困難にしているのである。
しかし、この…こんがらがって、血迷って、迷走して、見失って、足掻いて、落ち込んで、後悔して、涙して、苦しんで…という“無駄足遠回り”が、ニンゲンってやつである。

それは、人生を“愉しむ”ためのスパイスでもあるので、否定をして嫌悪するのではなく、本質を見抜くための足掛かりとなるもの、京都タロットのキャッチフレーズ、「絶対肯定」を思い出し、腹を見せる犬かのように身を委ねる…すると、勾玉の帝がスルスルと読める。

…はずである。笑

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奈みこ「京タロ術師ナ巫女舌。」
"京タロ狂" 奈みこの京都タロット偏愛変態記録に共鳴ありがとうございます🎴❤️この愛をもってさらに変態化していきます✨🙌✨