三法と四法

よく宗学で使用される言葉ですが、三法とは「教・行・証」のことで、四法とは「教・行・信・証」のことを指す。
学派によってこの言葉遣いが違うのであるが、私は法雷学派の説示が適切であるといただいています。
「三法門」は、他の学派では「行中摂信」の法門といいます。
法雷学派では、「法体成就」の法門という。
如来様の手許において、衆生救済の全ての用意が出来上がっていることを示すのが
「三法門」である。
また、法雷学派では、名号の独立ということをいいます。
この言葉は法体名号の独立という意味です。
衆生の機功がなければ、「名号」は自ずからその力を発揮する。

以下引用開始

「終日念仏して、而も自分が念仏した功によって往生しようとする自力心が無ければ、「法体」(名号)は独立する。「法体独立」(南無阿弥陀仏の独立)するところ「三法円具」(教・行・証・円満具足)の風光はあらわれる。浄土真宗の面目此処に光顕せられるのであります」

以上引用終わり

『教行信證大系』第一巻 教の巻 27頁より

とあり、終日念仏している中に、自力の機功がなければ、法体が独立するとおっしゃっています。
このことが何を意味するかといえば、三法は法の徳義を示し、四法は法の徳用を示すのです。
教も行も証も皆揃った名号が、衆生の心に宿りきたることを「信心」という。
このことが鮮明に説かれているお聖教があります。

存覚上人撰述の『浄土見聞集』というお聖教です。

以下引用開始 

善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふこゝろのなきは、これ摂取の心光、行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。光明は智慧なり、この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすゝめられたてまつりてくちに名号はとなへらるゝなり。これさらに行者の心よりをこりてまふす念仏にはあらず。仏智より信心はをこり、信心より名号はとなふるなり。

『真聖全3-378』以上引用終わり

この信心よりお念仏が生じるということはりは、光明によるものであります。

今日はこのへんで

なまんだぶ

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