小さい頃は神さまがいて
じゃがいもの芽が、芽っぽくなってきた。3ミリくらい。たったそれだけなんだけど、私はこれをまじまじと見てはうっとりしてる。ゴールデンウィークの相棒はネギの花とじゃがいもの芽。たのしい。
カタツムリ的な風貌のじゃがいも
芽が出てくるとか、根っこが生えてくるとか、あたりまえなんだけどいちいち感動する。「は!!いきてる!」「生命!」とうっとりする。
こういう、何でもない小さなことや一瞬から、大きな理(ことわり)とか「世界の全てが奇跡」みたいなことに想いを馳せる。小さい頃は日常の中で、もっとたくさんのそういう感覚があったなあということを思い出した。
ということで無性に『やさしさに包まれたなら』(1974,荒井由実)が聴きたくなった。改めて歌詞を読んだら、ユーミンがその小さい頃の感覚をたった二行で全て表現してくれていた。
小さい頃は神さまがいて
不思議に夢をかなえてくれた
そうそうそうそう!!!
まさにこれ!!!!
共感の嵐!!と思って他の人も同じように感じてないかと思ってこの歌詞についての考察を調べてみたのだけど、思いのほか、「神さま」とは何を意味するのか?という比喩的な表現として解釈を試みている考察が多かった。だけど私は、これは比喩でもなんでもないんじゃないかと思う。
小さい頃は神さまがいて、不思議に夢をかなえてくれたんだよ!!
✳︎
神様といっても、別に宗教的なことはわからないんだけど。
この記事の「大いなる存在」の語られ方が、小さい頃の神さまに近い気がする。
私で言うと小さい頃は、とても身近に「神さま」のような感覚を感じることがあった(ジブリの世界観ってまさにこれだと思う)。
そして、わたしの生きる世界はめっちゃくちゃにドデカイ奇跡の世界という感覚が今よりずっとずっとあった。世界というか宇宙というか、ビッグバンも宇宙の果ても生と死もひっくるめた、考え出すと眠れなくなる大きな世界。私も含めたたくさんの存在を包摂する大きな世界。パソコンには落とし込めない世界。
小さい時って、世界の仕組みや概念について知らないことの方が圧倒的に多い。だからこそ、自分の触れた小さな何かから自分の生きている大きな世界について急に気づくことがあって。そのパァっと世界が広がっていくような、きらめくような感覚、うっとりとする感動。
たとえば、いつもと違う道を通って小学校から帰ったら、見たことのないひらけた階段を見つけて、そこから見た夕陽の光に「あ、私が生きてるってすごい」って思ったりとか。
タンポポの綿毛が飛んでいくのをみて、これがまたどこかに根ざして来年どこかで咲いてまた綿毛になるんだと思った瞬間、生命の輪廻のような概念が頭にふわーっと広がって、その尊さに、ありがとうって愛おしくなるとか。
小さい頃は、余計な知識がない純粋な状態だからこそ「わたし」が直接的に「世界(神さま)」にアクセス出来ていたというか。
その中で、もっと小さな出来事も含めて、そういう「私」と「世界(神さま)」のなかで得られる一瞬の奇跡みたいなものがあった。
「不思議に夢をかなえてくれた」というのも、「〇〇のオモチャが欲しかった夢が叶った」とかいう結果論じゃなく、そこに至るまでの過程でいろんな一瞬の奇跡をちゃんとキャッチできたから「かなったと思えた」という感覚の話だと思う。
ユーミンの二行に勝る表現が見つからない。でも私がユーミンの歌詞から思い出したのは、そんな感覚だった。
今となっては過去の不確かな記憶を辿るしかない。私はいっつも、黒猫のジジの言葉を聞き取れなくなってしまったキキに感情移入してしまう。
だからこそ、次の歌詞にぐっとくる。
やさしい気持で目覚めた朝は
おとなになっても 奇蹟はおこるよ
大人になって、世界の大体とか、理論とか概念とか数字とか、人との言葉とか言葉にならないやりとりとか、経験とか、知りたかったものも知りたくなかったものも、どんどん増えていく。それが役に立つ時ももちろんあるけれど、複合的なそれらによって小さな決まったものしか感じ取れなくなったり、あえて感じようとしなくなってしまうことは多い。
だけど「やさしい気持ちで目覚めた朝は大人になっても奇蹟はおこる」のだ。
小さい頃のあの感覚を思い出して、やっぱりそういうものを大事にしたいなあと思って胸がきゅうっとなった。
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
やっぱりユーミンってすごい。