アウトプットしない日々
気づけば4月にnoteで投稿したきり、こんなにも月日が経っていた。あんなにも遠い未来だと思っていたオリンピックもすぐそこ。「トーキョー」とIOCロゲ会長が発表した2013年のあの瞬間が私にとってはピークで、何故かあの瞬間だけはこれからも鮮明に覚えている気がする。実感も湧かないまま暑い夏。
アウトプットせず、振り返ることもせずにただただなんとか生きた最近の日々は、決して記録に残すほどの出来事がなかったわけではなく、むしろたくさんの事事に翻弄されて立ち止まる余裕がなかったように思う。
というのも、4月もそこそこに、妊娠が判明した。この日々を、この気持ちを、残そうと思うことは何度かあったのだけれども、私の中から溢れてくる情報も、私の身体が晒される状況も、日々の変化も多過ぎて、向き合いはじめると途端に、ウッッ!!と溺れ沈没していた。
今もまだ納得できる形でアウトプットできるほど噛み砕けていないのだけど、お腹の中でポコポコウネウネする生き物を実感できるようになってきた最近になってようやく、この現実を現実として素直に受け止められるようになってきた。
正直、精神障害の夫との二人暮らしで手一杯の人生だったわたしに、夫が望むからとなんとなく避妊をやめたわたしに、まだまだ自身の体調が安定せず自分で精一杯なわたしに、妊娠という現実は嬉しいだけではなかった。
生き方の見積もり、甘かったかな、なんて考えていた。
そもそもつわりがこんなにも大変なもので、妊娠しても常に不安が付き纏って、妊婦さんが生活するのもやっとなくらいの体調の変化に見舞われるなんて、実際体験するまで全く分かっていなかった。
自分では理解しているつもりだったけど、びっくりするくらい分かってなかった。未知だらけだ。
「つわり」と「悪阻」は区別して使われるだなんて、だってそんなこと知る機会あっただろうか。水さえ吐いてしまう「重症悪阻」になって点滴で栄養を取るだなんて思いもしなかった。
今は「安定期」と呼ばれる時期になって、嘔吐も残ってはいるけれどそれでもだいぶ体調は落ち着いた。自分の体内で動くものがある不思議さはあるけれど、生命の安全を目視できないからこそ、ウゴウゴと胎動が感じられることにとても安心するし愛おしい。
結局なにが言いたいのか分からないままではあるけれど、それでもなんらかの形に残してみた今日は、昨日より少し余裕のある今日だ。
生活や生きることが全て受動的になると、どうしても追われて疲れてギリギリで、気付いたらわけのわからないまま時間だけが過ぎていく。
やっぱりどこかで、自分の意思でやることが人間のエネルギーなんだと思う。好き、や、興味、趣味がめっぽう少ない私は、意識していないとすぐにだら〜〜っと「べきもの」たちに流されてアップアップして疲れてしまうから。
たまにこうして戻ってきます。結局まとまりなんてないんだけど。