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Q.「障害者と結婚なんて、大変そう…」 ? A.大変だよ。

大変だけど、くっっっそ幸せだよ。大変だけど幸せ。大変と幸せは共存する。それが私にとっての事実だ。

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話題になっていたこの記事を見て、精神障害者と結婚している私は私の思いを整理せずにいられなかったのでここに書く。「障害者は大変」という前提のもとに書いていくので、それがしんどいと感じる人は、どうかこのままそっと閉じてほしい。


私がこの記事で引っかかったのはこの部分(他にもあるけど論点が違う)。一部引用します。

「障害者と結婚するなんて、大変そう…」
私と結婚する時、夫は多くの人にこう言われました。一生介護をする生活になるんだね、と。
結婚をするとき、夫の両親、親戚から大反対を受けました。障害のある私と結婚することで、彼は苦労が絶えず、不幸になってしまうと思ったようです。結婚式には彼の親族は誰も参列しませんでした。

自身の障害を理由に、愛する人との結婚を反対されることは筆舌に尽し難く辛い経験だろう。

ただ、「苦労が絶えず不幸になってしまう」と彼女の夫を心配する周囲の人たちが、理解がないかというとそうではないと思う。


私の夫は精神障害者だ。目に見える障害ではないけれど、資格を持った医師の診断書を提出し、法的に障害者と位置付けられている。

そもそもなぜ障害者という枠組みがあるかというと、健常な状態と比較して日常生活になんらかの支障があるからだ。別に大変じゃなければ、わざわざこんな制度いらないだろう。法的に障害者と認定して、それに応じてサポートが用意してあるのが今の日本の障害者福祉だ。

つまり。障害者=大変というのは、別にただの事実だ。それをもって第三者が「大変さがあるんだろうな」と思うこと自体はただただ普通の反応というか。それが差別的方向に悪さをすることはやっぱりまだ多くあって、それはまた問題だと思うけど、この障害=大変がないと、逆に言えば、配慮も工夫もサービスも、なにもかも成り立たなくなってしまう。

かくいう私も、精神障害者の夫と過ごす中で大変なことはたくさんある。それは事実。10年付き合ってから結婚したけれど、その間に彼が支障なく動けていた時期は少ないし、なんならまた最近も動けてないし(春の風物詩だね)、荒れに荒れて入院という選択をしたことも一度じゃないし、精神疾患の波の影響を私が日常的に受けていることは事実だ。

そして、それでも彼と一緒にいたいがために、病院に同行して医師から話を聞いたり、本を読んで勉強したり、援助職の仕事について(これは希望というより偶然の配属だったけど)知識を得て、周りにサポーターやお互いの理解者を増やしたり、まあ結局そう机上の空論で上手くは行かずに紆余曲折して、めっちゃ悪いことも、結果的にめっちゃよかったことも、いろいろ二人で過ごしてきた。

なんなら未だに正解なんて見つからないし、悪くなるときは悪くなる。でも、お互いに海千山千をくぐり抜けて、トライアンドエラーで日々すこしずつ、小さな気づきを得たり落としたり拾ったりして前に進んでいる。そして、これは無くなるものではないということも知っている。


じゃあなんで結婚したのかというと、その障害の部分も大変な部分も全部まるっとひっくるめて総合的に勘定した結果、私はやっぱり彼と一緒にいれるのが幸せと思ったからである。

我が家の場合は夫婦ともに両親に離婚再婚歴があるので、「結婚のことであんたらにとやかく言われる筋合いはないわ(笑)」という強気な姿勢があった部分が特殊かもしれないけど、それでも結婚を伝えるとき、特に私の生みの親たちにどう伝えるかというのは夫と二人で悩んだ。障害者と結婚すると聞いて、まあ普通の反応なら「苦労しないかしら」と心配するだろうというのがお互いの共通認識だった。


結論から言うと、「彼は障害者です。大変なこともあります。それは事実です。大変なことは多いけど、これまでこうやって二人で取り組んできました。これからも大変なことはあると思います。それでも私は彼と一緒にいることが幸せです。」というようなことを父にプレゼンした。障害がどういうものかについては、彼から彼の言葉で私の父に説明してもらった。

障害があるということは紛れもない事実としてあること、それを私も夫も十分理解していること、夫は夫で自身の障害と付き合って生きていく大変さが、私は私でその夫と生きていく大変さがあること、それは百も千も承知のうえで、それでも一緒にいたいんだということを伝えたかった。

まあ、結局父は「〇〇がそんなに幸せそうな顔してるの、初めて見たなあ。」と、私も見たことのないデレデレとした顔で受け入れてくれた。(母はもともと彼と交流があったので一から説明せずに結婚の報告だけした。)


障害者の当事者であるこの記事の筆者と、障害者の配偶者になった私とでは立場が違うので、当事者ならではの、今まで生きてきた累積経験あっての認知については、私には語れない。 

だけど、以下の2つのことを同一線上の問題として語られるのは違和感がある。

結婚を反対されていると相談すると、「親が心配して反対するのは当たり前」「親の悪口は言ったらだめだよ」と言う人もいたのです。
「どんなに頑張っても、何かあると『障害があるから仕方ないよね』と言われてしまうのです。」

障害者がどんな困難を抱えているか、関わったことのない人は分からないよ。分からないからこそ、それに対峙してる当人が「大変じゃないよ」とニコニコしてたら、こいつ無理してる?と勘ぐる。それは愛ゆえですよ。愛しているがゆえに、「どれくらい大変なんだろう?」「それでこの子が辛い思いをするのでは?」と思うことは、申し訳ないが、親として、友人として、普通のことだと思う。

だからこそ当人たちがいかにその事実に自覚的であるか、自覚的であってなおどういう結論を出したのか、ということを周りの人に説明する責任はあるのではないかなと私は思う。

それと「どんなに頑張っても障害者は仕方ないと言われる」はまた別の問題。それは障害者が置かれている累積経験から出た、この人が抱えてきた生きづらさなんだと思う。


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私は、リアリストであろうとするが故に、突き詰めてみたらもはやそれロマンチストやないかい系思考の人間だと自称しているのだけど(?)、最後にこれだけ言いたい。

「大変じゃないよ。普通に幸せだよ。」だなんてはっきり言って嘘だ。「普通に幸せ」ってなんだ。障害者である自分がその障害をわざわざカモフラージュするのか。それは隠すことじゃない。それは悪いことじゃない。隠していたら、見て見ぬ振りする健常者たちと同じじゃないか。足がない人に「あなたは足がありますね。幸せですね。」って言うのと何が違うのか。

大変でいいんだよ。それは事実。でもそれでも幸せになれるってことが重要なんじゃないかと思うんだよ。

障害を「普通」に寄せたら、それだけで幸せになるかというと、別にそんなことないよ。健常者だってなんだって、幸せかどうかは自分たちが決めるんだ。

私は障害者の夫がいて大変です。まあぁ、大変なことは次々おこるね。笑っちゃうよね。でもその分飽きないよ。大変だけど、くっっっっそ幸せ。夫よ、私といてくれてありがとう。

そんな感じで生きてまーす!

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