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スルスル流れていく時間の中で一時停止する意味

「きょうはとーってもいい日だった!」
「かーちゃんと、タングラムしたから!」
夕食時に6才の娘が言った。

好き嫌いが多めの娘は、ごはん時は少し不機嫌なんだけど。
満面の笑みでうれしさを表現してくれた。


これは息子作。何年前かなー。



平日の夕方、
子供がいる家庭のほぼすべてがそうであるように
母である私は座る暇がない。


とはいえ、子供たちも大きくなり(小三、年長)はるかにラクになった。
1歳4歳とかもう思い出すだけでも地獄絵図…


なのにわたしは、隙間があるとスマホを触ったり本を読んだり、家の用事をしたりしてしまう。


子供との時間を確保しようという意識が起きない。
(起きるほどの時間的余裕もない…という言い訳を入れさせておくれ…)


でも昨日は思った。「思えた」が正確かもしれない。


「 娘とあそぼうかな 」


ご飯を炊いている間。
お風呂を洗うために水を抜いている間。


そんなとっても小さい時間に、遊んだ。


と言っても、ほんの5分にも満たない時間。
娘と一緒にタングラムをした。

(これです。タングラム↓)



’遊んであげている’という意識ではなく
’遊んでいる’という感覚で、遊んだ。



そしたら娘は、とーーーってもうれしそうに
「きょうはいい日だ!」って教えてくれた。



昨日は、忙しい時間帯にどうして「遊ぶ」を選択したんだろう。


それは、スルスルと流れていってしまう当たり前の時間の中で、一時停止して自分に聞けたからだと思う。


慣れている方を選びがちな人間。それは、無駄なエネルギーを使わずに生きるための便利な機能でもある。


でも、その便利な機能を一時停止して、思考してみる。
(思考するって人間の特権のひとつってどこかで聞いたし!ほんと?)



たまに一時停止して考える時間を取らないと、
どんどん「これまで」が増殖していく。

もちろん「これまで」にハナマルをつけられる人はどんどん増やしていったらいい◎


でも、わたしは3ミリ方向転換をして、
これまでとは少し違うところへ進んでいきたいと思っている。


だから、一時停止ボタンはわたしにとって大切。



周りの流れに乗って、自分の人生を生きる覚悟を背負わずに生きてきたという自覚がある。困った時は誰かのせいや、環境のせいにして。(負の過去のようでいて、わたしには必要な時間だった。がんばってた生きてきた証拠でもある。)



でもどちらかというと
前をみて進む自分が好き。
猪突猛進に進むというよりは、3歩進んで2歩下がるみたいな進み方がより好み。



今回のわたし前に現れた道は2つ

1,隙間時間を持て余すようにスマホを触る母
2,短い時間でも娘とタングラムをする母

いつもなら、
一時停止ボタンを押さなければ、1へ進む。ほぼ無意識に。
でも今回は止まれた。だから、2へ進めた。

小さなことでも、行きたい方向を進めたことへの充実感はたしかにある。
そしてその充実感の積み重ねが、きょうのわたしの笑顔とか、あしたの娘の笑顔につながっている。
だから時折意識的に「一時停止」する。

これは、一生やっていくんだと思っている。


自分を見ていく道のりに終わりわないし、面倒だな~って思う時もある。
でも、知らない自分に何度でも出会えるのが面白過ぎるのだ!



娘、嬉しそうだったな~。
それ以上に私の方が嬉しかったと思う。

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