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過去と未来に囚われながら生きることはしあわせなことかもしれない
わたしたちは頭がいい。
良すぎるかもしれない。
過去の濃い記憶をいつまでも覚えていて、
いつまでもその体験に足を引っ張られる。
「あの時ああして、ああだったから、またこうなるかも…」
「ほら、きっとまた失敗するから…また嫌な気持ちになるから…」
それはもちろん、自分を助けてくれることもある。
でも必要以上に足かせになることもある。
人間は狩猟時代と言われるような頃から、ほとんど変わっていないって聞いた。脳の仕組みもカラダのつくりも。それって、周りの環境の進化の速度に全くついていけていないではないか!
アリの歩くスピードと新幹線くらい差があるのでは…
そう思うと、「人間という動物って?」って一度理解しておくことはとても大切なことだと思う。でないと、必要以上に自分を責めてしまうから。自分を責めることのメリットなんてひとつもない。
動物や植物って、子孫を残して繁栄していくためには?その一点のためだけに変化しながら環境に適応しながら今を生きている。羨ましくなるほどにシンプル… 人間はもっと複雑に色々なことを考えてしまう。考えすぎる。頭をキュルキュルーー!ってフル回転させて。
そのキュルキュルーー!はもしかしたら不要かもしれないことにも気づかないで。
キュルキュルのひとつに「過去のことに囚われる」がある
毎日を積み重ねて、今のわたしがいる。
他人のことなんて、なーーーんにも考えないで、自分の心地よさだけを軸として生きてきた時代は誰にでもあった。物心がつく。その前くらい。
でもそんな風にしていると
怒られるんだ
嫌な顔をされるんだ
否定されるんだ
そんなことを少しずつ学んでいく。学んでいるつもりなんて全くなくても、人間の本能的な部分が勝手に学んでいく。
「ああすると、危険!」「そうしたら、危険!」
気づけば、自分の中にたくさんのやめときなよ!こうしなよ!という“危険信号”を集めている。
そして、二度とそんな危険な目に合わないように、本能的な部分が気を付けてくれる。それはもちろんとても大切な機能で、それを失ってしまっていたら人間はここまで発展しなかったと思う。
でもその機能はとてもよく働いてくれるから少し過剰になることがあって。反対に自分を苦しめてしまうことにもなり得る。だから、ひとつひとつ、これまで集めてきた“危険信号”を取り出して再確認していく必要がある。
「ほんとうに必要かな?」
「これくらいだったら大丈夫かもよ?」
そうやって少しずつ“危険信号”を手放していく。
その道のりは思いの外、結構長くて。
もしかしたら一生をかけてやっていくのかもしれない。
でも手放すほどに自由になれる感覚があって、今はそれをとても楽しんでいる。
過去と未来に囚われるのは、「今」がしあわせだからという仮説
自分を見つめていける時間がある。
それは、自分には健康な体があって、家族も健康で、明日食べるご飯、住む場所にも困らないから。
だからそんなことに想いを馳せることができる。
自分のことがわからないのは、辛いことだと思うし、それを掴みたいと思う気持ちも尊い。一方でそのために悩んだり考えたりすることができるってことは、そもそもしあわせな証拠。
あしたのご飯がない
住む家がない
あした死ぬかもしれない
そんな風になったとしたら?
今抱えている悩みと思えていることはすべて悩みじゃなくなる。極端な話かもしれないけれどわたしはそう思う。
だからありがたい。
未来を不安がれる時間があること。
過去に囚われる時間があること。
とか言いながらも、
過去に囚われて動けなくなることや、未来が不安でモヤモヤを抱える瞬間もあるんだけど。それはやっぱり生きているからこそで。
そんな当たり前でかっこつけてるみたいだけど、そ~~だよな~~~と感じ入ったのでした。
「今」「きょう」を精いっぱい生きる。
わたしにできることはそれしかないんだな。
いい意味で諦めが入ってきた。