「わかったつもり」が溢れて、上滑る
自分の気持ちも
相手の気持ちも
世の中のいろいろなことも
「わかったつもり」になっていたことが多すぎるなと思う。
わかった!と自信を持って言えることなんて、この世にはほとんどないとも言えるのに、なぜ「つもり」になっていたんだろ。
もしかしたらこの在り方のせいで、多くの体感・経験の機会を失ってきたんじゃないかと思う。
それは言い換えると「人生全体の濃度が薄くなっていた」ともいえる。
こどもの頃に「質問はしなくてもいい」と体得してしまったのかもしれないな〜と思う。
学校で何かを習う。
ちょっとわからないことがある。でも「わからない」と言わない。
そんなこと聞くのはクラス全体に迷惑をかけてしまうかもしれない。わたし一人に時間を割くなんてできない。そもそも、恥ずかしい。バカって思われたくない…
家に帰って、家族に聞けばよかったのだけれど、忙しそうな家族の間に入っていって「問いたい」と思うほどの熱量もなかった。
それに「わからないまま」でも何の問題なく生きていくことができた。
’はみだしもの’にならない限り大人は介入してこないし。
聞かないことでの弊害は、私の中にちょっとずつ「?」が蓄積されていくことだけ。そんなの別に見ないフリができる。弊害ともいえないレベル。
「問い」を差し出すよりも、「わかったつもり」のままにしておく方が、こどものわたしにとって都合がよかった。
でももし
トコトン「?」が解消されるまで「問い」を差し出すことができていたら?
今のわたしとは一味も二味も違う人になっていたんじゃないか、と思う。
質問する度に「?」が解消される。その喜びを味わう。
もっとたくさんのことをノビノビ濃く吸収して、イキイキ自由に発言していたんじゃないかと思う。もしかしたらもしかすると、世紀の大発見をしていたかもしれないよ?
全部タラレバ論だけれど、そんな風に思ってしまう。
「問い」を封印し続け、気づいた時には「言葉にするのが面倒」「考えるのが面倒」みたいな大人になってしまっていたから。
そうじゃなかった方の自分をつい想像していまう。つまり後悔している。
*
「わかったつもり」の最大の弊害は、何をしていても「上滑る」ということ。
_「上滑る」はどんな感じ?
あくまで、わたしの場合。
そのことに「気づいた」時は衝撃だった。
「深く傷ついた」ともいえる。
でも、それはとてもよい機会だった。
カチコチに閉じていたいた自分の中に潜り込み、小さくなっていた自分に会いに行こうと思えたから。
*
今は、おかげ様で地に足を付けて日々を過ごせている感覚がある。
とはいえ、180度変わったとは思っていない。今は110度くらいかな。
これから一生かけて180度にしていくのだと思っている。
ここからは、行きつ戻りつ確固たるものにしていく予定。
_変化に必要なものはシンプルなことだった
いくつもの取組み・人との関わりが折り重なって、今のわたしを作っている。だから、「何をしたから変わった」と言い切れはしない。
でも、私の中で「コレ」がひとつの鍵になったんじゃないかと思うものがある。
とてもとてもシンプルなことだけれど
わたしにとってはすごく大切な取り組みだった!!!!!!
(ビックリマークを6個つけるくらいには大切)
それは
たったこれだけのこと。
(それに加えて、初めて心を深く学んだこともとてつもなく大きい!!!!!!!!!びっくりマーク10個分くらい。これについてはまた書きます。)
でもそれが今、これから生きていく上での背骨を構築してくれたと感じている。(今も日々構築している)
「わかったつもりでやり過ごす」ができなくなった。自分に嘘がつけなくなった。これは40年近く生きてきて実は初めての感覚で、すごく喜んでます。わたし。
自分をたいせつにするってなに?ってよくわからなかったけれど、それもわかるようになった。
かといって、これからのすべてが上々と確信を持っているわけではない。
でもマイナスと思えることもなんとか味わえるわたしになったんじゃないかと思っている。
在り方を更新!
おわり
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