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短編小説「地縛霊と盲目の海」


 この海に祈りを捧げれば天国に行くことができる。

 島から一歩も出ず、一生を終えれば、いずれ時が来て生まれ変われるのだと。それは私が死ぬ前に両親から散々説かれてきたことで、当時は疑問を抱くことはなかった。

 手を合わせているうちに穏やかだった波の音が乱れたのが聞えて、もうすぐ潮水が砂浜を呑み込む頃だと気づいた。そんな危うい状況の砂浜に向かって、ざくざくと足音と二つの男の声が聞える。

「ほら何もいねえって」「やっぱやめようって……」

 右側は重たい足音で、左側は弱々しい足音だ。左側の声はひどくおびえている。彼らが手に提げる海中電灯の光にむかって、潮を含んだぬめっこい海藻をぶん投げる。きゃあという悲鳴につられて野太い吃驚の声がこだまする。その声が耳の良い私にとっては不快で、乾いた砂をつかんでもう一度同じ方向に投げた。服に当たり砂がパラパラと落ちると、彼らは私がいる反対方向に、「本当にいたんだぁ!」と負け犬が鳴くような声で、走っていったようだった。

 のちに沈黙がおこって私は悪さをしたような笑い声をあげた。茶化しにきた連中を追い返してやったのだと、得も言えぬ満足感がこみあげた。あのような連中は物を投げれば逃げていく。

 この海は幽霊に出会える海だと噂をされているらしかった。実際、私は幽霊であった。それもこの海から離れることができない、地縛霊である。残念ながら訪問してくる輩と親しくするつもりはない。どちらかといえば悪霊である。昼間は許してやるとして、夜に自分のテリトリーに侵入する奴らを許すことはできず、こうして遊び半分で来た輩を追いだしていた。

 こう安心しているのも束の間で、もう一つ足音がざくとなるのが聞えた。サンダルを履いた真っ白い脚が私の目に映る。見る感じ少女の脚だった。私は本能的に向かってくる足にめがけて海藻を投げた。

 普段通りなら心の底からこみ上げたような、戦慄の声が響くはずだった。しかし静寂に響いたのはさざ波にもかき消されそうな、砂のような微笑だった。私にはその声がはっきり聞こえた。それも澄み切って高い声だった。伸びた前髪の隙間から声の元をたどると、少女の顔があった。目の悪い私には顔のパーツまで鮮明にみえなかったが、少女は確かに微笑んでいる。

 どうやら幽霊である私が見えているようだった。

「潮が満ちるまで、ここにいさせて」

 彼女は消え入るような声でそう言ったあと、私を見て見ぬふりをするかのように、そっと砂浜にすわった。
 

 私は薄汚れた白いワンピースに潮にやられた髪の毛を伸ばしている。巷では貞子という都市伝説が流行っていたが、ようはあんな恰好をしていて、THE幽霊という見た目にふさわしかった。

 そんな私に怖がる様子をみせず、少女は砂浜に座ってぼーっと水平線を見つめていた。彼女が侵入してくることは私にとって問題だった。幽霊が見えるということは、まず一つに霊感が強いことが挙げられる。厄介なのはもう一つ、死期が近い人間であることだ。

 声の様子からこの少女は後者であると推測できる。こんな夜の遅い時間に出歩くことを許可している、なんて今の家庭では考え難い。となると家から逃げ出したいほどのことがあって、海に身を投げようとしているか。

 仮に死んでしまった場合、地縛霊が私ともう一人誕生してしまうことになる。そうなってしまっては居心地が悪い。私はコミュ障なのだから。

 そういうわけで、警戒心のかけらもない背中を後ろから脅かそうと追いだそうと声を出したりしたが、少女は微笑を返すだけだった。それは皮肉にも明るい笑い方ではなく、どこか陰のある笑いだった。

 まるで死ぬことへ躊躇いのない様子で、私は彼女をこの方法で追いだすことに引け目を感じてしまった。しかし、そうもたもたしている間に波が不定期に弾くのを聞くと、何もしないわけにもいかず、私は距離を空けたところで無言でじっと彼女を見つめることにした。

 数分が経過し、その視線に違和感を覚えたのか、彼女はこちらに目を向けないまま欠伸をするように口を開いた。

「早く出て行け、って顔ね」

 有名な肖像画のように首をまげて私を見た。眼の悪い私には彼女の輪郭は朧げに見えた。しかし感覚的に目が合ってしまったような気がして、私は顔を伏せた。

「安心して。綺麗な海を見に来ただけよ。潮が満ちるまではここにいさせて」

 たんたんとした彼女の言葉には重みが感じられなかった。その不気味さが私の喉に張りついて、ぞっと鳥肌が立った。

「……だめ……よ」

 久しぶりに出た自分の声はかすれていて、乾いた海辺の砂のようにざらざらしていた。そんな声に彼女はこっちをさらに見つめた。波にのみ込まれたら死んでしまう。そして、ここに縛られて、どこへも行けず生きて行くことになる。私の思いに反して、少女は張った声で言った。

「美しさに見惚れて息を絶えることは怖くないわ。波にのまれれば自由がある。自由に飲まれて死ぬのなら不自由に生きるよりは怖くない」

 彼女の言葉の意味を理解するには少し時間がかかったが、それでも私は首を振った。死んでも良いなんて、私は反対だった。

 そのコミュニケーションの取り方があまりにも滑稽だったのか、彼女は初めて甲高い声でお腹の底から声を出して笑った。私にとってそれは不愉快だった。命を大事にしてほしいからの声なのに、ひどく嘲笑われた気分になった。そして、目を拭って彼女は言った。

「心配しないで。死ぬつもりはないの……」

 それにね、と彼一呼吸おいて女は顔を上げた。麦わら帽子が月の光に影をつくっている。その瞳にあの月はどのように映っているのだろう、と想像する。私には眩しすぎて目を向けていられない月だ。

「他にすることがあるの」

 彼女は含みのあるように笑みを浮かべていた。私は急に追ってくる何かから逃げ場がなくなったような緊張が走った。

「私はあなたがここに縛られている理由を知りたい」

 波の周期が速くなったのを聴いて私は首を振った。私には生前の記憶が残っていない。死ぬことに嫌悪感はあるが、死んだ理由はわからない。当然縛られることになった理由もわからない。彼女はまるで祈りをささげているような神妙な顔つきで続けた。

「あなたは成仏して、天国に行ってほしい」

 それを聞いて、私は表情を変えずにはいられず、「……どうして、そうなってほしいの?」と声が出た。

「ずっとここにいるなんて不自由よ」

 たしかに私は間違いなく不自由だ。ずっと一人でここに彷徨っている記憶しかない。端から見ればそれは不自由極まりない。だけど地縛霊である私が自由になれるはずはない。それに私は不自由でも、危険を冒して領域の外に出ようなんて思えなかった。

 私は力ある限りに彼女を睨みつけた。彼女は「そう」と言うと、一度力を入れ直したのか気迫が高まったのを肌で感じた。

「なら駆け引きね。潮が満ちるまでにあなたが成仏してくれれば、私はここから離れるわ」

 彼女の考えがわからなかった。だけど、ここから離れてくれれば、彼女は無駄に死ぬことがなくなると思った。

「……思いだせば、あなたは死なないでくれるの」

「そう……、なるのかもね」

 ならば私は、記憶を思い出す必要があるのかもしれない。私は彼女の影のかかった目を見て頷いた。

「ただ話をしてくれるだけでいい」

 本当にそれで記憶が思いだせるのかはわからなかったが、その余所行きな風格になんとなく信頼できるような気がしていた。

「昼間はどうしているの? ずっとこの海を見ていられるなんて素敵じゃない?」

 言われて私はいつも過ごす昼間のことを想像してみた。昼間は人が繁盛していて、とても立ち寄る場所なんてありはしない。子連れ家族や男女のカップル、砂で城をつくる子どもたちを遠目で見ながら、私は森の日陰でその姿を見つめている。

 私は首を振った。

「いつからここに?」

 一日中夏と言ってもいいこの島で、時刻を計ることは難しいが、毎日少しずつずれていく太陽の傾きでなんとなく予想できた。一年という意味を表すために、人差し指をたてた。

「……そう、そうなのね」

 彼女にはどう伝わったのかわからないが、何が「やっぱり」なのだろうか。これしか話していないのに、というかこっちはジェスチャーで答えているだけなのに、自然と会話をしている気分になれる。彼女の言葉は透明で、胸の奥にしんと潜り込んでくる感覚がした。

「あと気になったのは、あなたは目が悪いのよね。そんなに前髪を伸ばして」

 彼女が言うように私は目が悪い。それも視力が悪いというよりは違う意味がある。私はこの世のものをあまりみたくないから前髪は長くしている。その分、耳をたよりに生きてきたから聴覚は発達しているはずだ。しかし他にも理由があった。

「……男の人がいて、それで、打撲、でそうなった」

 眼は繊細で、近くを殴られただけでも、失明する可能性がある。私の頭には腕を振り上げて怒声を発している男の姿がぼんやりと浮かぶ。しかしその動きは鮮明であった。その映像に耳をすませば、私の後ろから消え入るような金切り声が聞える。ふいに風が頭に吹き付けて、私はその声をとらえられなくなった。頭から出た鮮血が再び脳みそに潜り込んで蝕んでいくような感覚がした。

「さっき男の人の声が聞えたけど、あなたが追いだしたの?」

 頭を手で押さえながら私は首を縦に振った。ふっと潮風が鼻をかすめる。私の頭の中に蠢く黒い毛糸のようなものが、まるで線香花火が弾くように明るくなった。彼女の言葉が、私の記憶に触れたのかもしれない。苦しさを頭に抱えながら私は港町の方を見つめた。

「でも、殴られたあと、入院した病院で慰めてくれた人がいて、とても勇敢な人だった」

 目の悪い私には少女の方を見つめてもおぼろげな輪郭しか映らない。私は砂を見つめる。海を見ていると、荒れた波が自分を呑み込む錯覚を覚える。だから、海は嫌いだった。

 そのはずなのに。

「私は海が嫌いなはずなのに、どうしてここに」

 ぽつりと独り言が出たのに気づいて、口元を両手で覆った。あまりにも自然に出た言葉に、何か特別な力があるように感じた。下を向いていてもわかる。少女は私の方を見ている。

「どんなに綺麗な海も強い風が吹けば荒れる。それは怖いかもしれない。その波はきっと人の命を奪う」

 私は相槌を打った。

「だけど、私はその海にのまれて死ぬことは、美しいとさえ思える……」

 彼女が言うと、どこからか風が一つ吹きつけて前髪が上がった。砂しか見えなかった私の視界に青暗い海が映る。月の薄暗くも眩しい光が視力を失った目を潤す。暗い海の表面を月の光がインクのように滲み出していた。月は光の絨毯を広げて、それを踏めば遠くまで行ける気がした。知らない人しかいない遠くに行ける気がした。誰も見ていない、縛られない場所に。

 いつか一緒に、その人と一緒に島の外まで行きたかった。だけど……。

 砂浜に小さな足跡がついている。そこらにいるカメの親子の足跡なのかもしれない。足並みをそろえて、仲良く歩いていた跡が波に攫われる。頭にさっきの人物が思い浮かんだ。海を見ている時に襲われる緊張感をその時にも感じていたのを思い出した。

 その人物は私の両親だ。保守的な家庭で育った私は親に止められて、ここを出ることを許されなかったのだった。

「私にはそんな勇気がない」

 私の口から泡のように声が零れた。

「あなたは親に出て行くなって言われればそこから出ていける勇気がある? できない。怖くて、そんなことはできない」

 私が少女に訴えるように言うと、彼女はおそらく強いまなざしで私の方を見た。

「私は自由に生きたいから」

 返す言葉が見つからなかった。私は天国に行っても、自由になれるとは思わなかった。

「きっとあなたとは合わないわね」

 私がそう言うと彼女は微笑んだ。その時、遠くで船の汽笛が鳴った。自分を思い出すことで必死だった。動こうとしていなかった月が傾いている。砂浜を舐めていた波がもう足元まで来ていた。吹き荒れる波が途端に大きくなった。途端に私の足が震え始める。彼女はその波をじっと見つめている。

「そうね、私は死んだことに後悔はないから」

 少女の朧げな輪郭が、頭の奥の記憶をうごめかせる。潮の香りから懐かしさが徐々に溢れる。男を嫌悪するのは、この高揚は、私がレズビアンだからだ。

 途端、灯台を呑み込むほどの波が起こって、白いワンピースの彼女をのみ込もうとした。反射的に伸ばした私の手は潮騒にのまれて、宙に足が浮いたかと錯覚すると、荒れ狂う海の中に引き摺りこまれた。

 海中で息が苦しくなりながらも私は彼女を探すために目を開いた。月光が魚の群れを照らし出している。小魚の群れが鯨のように泳ぎ回って、水の中に嵐を起した。その渦に飲まれながら私は水を喉に詰まらせて、息がさらに苦しくなった。鼻の奥深くが染みて、視界が暗くなった。

 その暗い闇に、まるで走馬灯のような映像がゆっくり流れ始めた。私は頭の中に泳ぎ出すそれを、遠のいていく意識の中で無意識に追っていた。
きっと、生きていた時の記憶だ。

 私はレズビアンだった。

 そう知ったのは中学生の保険体育の授業で、周りに相談するわけにもいかなかったから、両親に話を聞いてもらうことにした。その時は父も母も肯定の首を振ってくれて、温かく見守ってくれた。私は一人娘で、大事に育てられてきた。女が島から出ることは古き思想ながらも許してもらえるものではなかった。

 高校は島から船で通った場所にあるが、そこで同じ性的マイノリティの彼女と出会うことになった。運命だとさえ思った。彼女と話したのは島の外の景色と進路についてだった。

 自由を語る彼女の姿は女性ながらに勇敢で、輝いて見えた。私はその姿に惹かれた。彼女はそんな私を受け入れてくれた。やがて私たちは高校の卒業を機に、都会で共に暮らすつもりだった。

 しかしそんな私たちを、親は許してくれなかった。両親の配慮は憐みの色が濃くなり始めていたのを悟ってはいたが、私は伴侶が見つかったことを告げる決意をした。彼女は親の反対を押しのけるつもりだと言っていたから、私もその後ろをついていきたいと思った。

 私が視力を失った原因になったのは、女は島に残るべきだという思想をもつ父だった。そんな父の怒りの矛先を受けたのは母だった。

「お前があんな子にしてしまったんだ」

 憤怒した男の鋭い拳から、母を庇ったのは私だった。頭から神経に刺激が伝わり、イラストのような星が暗闇の中に散ったかと思うと、私は居間の熱電球が切れたのではないかと思った。しばらく脳味噌が震えていて、意識を失ったわけではないのに動くことはできなかった。やっぱり、女はこのように狭い部屋を見ているだけで一生を終えるべきなのだと。救急車の音で私は自分が眼だけ開けて眠っていることに気づいた。

 父親の打撲で視力をなくした私は手術を終えて、療養期間中に家で寝込んでいた。そんなとき彼女は家まで来てくれた。

「私が島の外の写真を撮ってくる」

 彼女は愛用のカメラをいじってかちゃかちゃ音をならしていた。いつも聞いていたその音が、鼓膜を頼りに息をしている私にとってひどく耳障りだった。そして、窓を見て横になっている私に向けて、島で撮った海の写真を見せつけた。

「目が悪くても綺麗に見えるでしょ。カメラにはそんなすごさがあるの」

 フィルムに映し出された島の海岸を高所から映した景色は鮮明に見えた。部屋の薄暗い空気をさらに美しく映る私の目とは違っていた。彼女の目もきっとこんな風に綺麗なのだと思って、唐突にそのことを許せなくなった。

「撮ってきてどうするの?」

 声が揺れていた。掃除を怠っている間に積もっていた床の埃を見つめながら、自嘲するように言った。

「私をもっと苦しめるの? もうわかってよ、私は外になんか行けないの!」

「私が連れて行くわ」

「そんなことしたら、お母さんとお父さんが不幸になる」

「ならないわよ」

「私が外に行くことを望んだから! 二人は今も不幸になっているのでしょう」

「自分を縛らないで」

「違う。私は自由に縛られているの」

 私の嬌声は狭い部屋に反響していた。その鋭い振動に対して敏感に反応する鼓膜が憎らしかった。

 気づいていた。島の外に夢を抱かなければ、性的マイノリティとわかっていながらも黙ってここで暮せていれば、今より苦しい気持ちにならずに済んだはずだと。そして、その島には彼女がいなくて、私はここでずっと天国に行くことを待てばいいのだと。

 窓から彼女を見ると、彼女は輝いていた笑顔を曇らせて、一度私の方から目を逸らすと、下を向いた。彼女が下を向いているのを見たのはそのときが初めてだった。そして哀愁を背負ったまま扉を出て行った。

 その哀愁は私のせいで、私がいなければ生まれてこなかったものだと思うと、その背中が嘲笑っているようん気がしてきて、何もかもが憎らしくなった。


 お盆の日だった。この一連があったのに、彼女は船に乗ったということを携帯で連絡してきた。私はニュースで台風が近づいてきたことを知っていた。そして、この島の雲行きは怪しかった。あの子はそんな悪天候に逆らって船に乗り込んだのだと知ったのは、その連絡への返信に既読がつかなかったときだった。

 後日に、同じの時刻の同じニュースで番組で知った。彼女が乗った船は天の不機嫌によって沈没した。彼女が死んだ日と比べて、その日は比べ物にもならないくらい晴れた空だった。

 昼間はエメラルドに彩っている海も、夜に見れば漆黒で深い色をしていた。天国に行ける気がして、私は彼女を追うように海に飛び込んだ。


 苦しくても、このまま足掻くことをしなければ天国に行ける。魚が巻き起こす渦がドラマティックで私にとっては最後に見る景色には綺麗すぎる。泳いでいる魚が文字のようでを形成して、正しい形に戻るように集まるそれらは何かの言葉のようだった。

 こんなときになっても私は縛られたままだ。最後の返信をまだ伝えられないから。水に呑み込まれながら私は月の光に向かって手を伸ばしていた。浮遊するようで堕ちていく体に逆らって私は息をした。私の体は苦しさに逆らって動いていた。

〈この前はごめん。今度一緒に外に旅に出たい〉

 その言葉が頭に浮かんだ時だった。私は気泡を吐き出していた。その気泡は魚の群れをどかして、月の光が降りる梯子をつくっていた。……逆か、月の光が梯子のようだった。

 もう死んでいるのにまだ死にたくない。あの子は死んで満足だったのかもしれないけど、私はここから抜け出したいと思った。

 天国じゃなくていい、自由な世界で生きたい。

 強くそう思った。そう思うと衝動にかられて足が動いた。幽霊ながらも足をばたつかせていた。まともなフォームでなくてもそれで浮上できる気がした。盲目の瞳に光が、だんだんと強くなっていった。

 ふいに、私の伸ばした手に新たな白い手が降りて来た。それは少女の手で海面に向かって引き挙げられた。逆流する水圧で目を開けることも出来なかったが、そこに彼女の手の温度があって、私たちの体はさらに加速して浮上していた。

「あなたがここから出たいと思うなら、ここにいる必要なんてない」

 わかっているよ。でもどうやって……。

 意識が飛びそうになりながら、私は声を張り上げた。

「地縛霊だから、私はここから出られない」

 私は島から、この海から出ることはできない。

「上にいけばいいのよ」

 上、に?

 地縛霊の行動範囲は限られているはずだが、それは高度を考慮していないのかもしれない、と理論的に考えるのも馬鹿らしく、いつの間にか私たちの体は水面から飛び出して、水しぶきが上がった。

 突然冷たかった私の胸に温かい何かが広がった。もう朝が来ていて、目の前の彼女の顔の水滴が眩しく照らされていて目が眩んだ。私は顔を確認する前に、「上に……⁉」と実に間抜けらしい声が出て、再び勢いよく体が浮上した。

 私たちが風圧に逆らいながら薄い雲を通り越したところで、ようやく勢いと風が止まり、目を開けると青空に浮かんでいた。

 その風圧で、私の前髪は舞い上がる。その目の下に映ったのは、瑠璃色の光を反射する天国のような美しい海だった。

「ね、綺麗な世界でしょ」

 雲の隙間から私たちは島を取り巻く海を、緑に広がる世界の形をみた。

「広いのね、世界って。こんなに」

 潮でべたべたになっていた髪の毛は日光で乾いていた。乱反射する宝石のような光を吸収して私は視力を取り戻していることに気づいた。

 まるで嘘だったかのように、立体的な世界が鮮明に眼球に張りついているようだった。私は改めて少女の顔を見た。私の覚えているその顔だった。

 私の大切な人の顔だった。

「ほんとにあなたは前を見てくれないから」

 視界がぼやけた。しかし薄暗いのではなく、明るくて透明だった。

「やっと会えた」

 私たちの体は綻んで、さらに上空に向かって行くようだった。それは私と彼女の体が一緒に成仏しようとしているということだ。

 そして私たちは同じ姿でこの世に生まれることはない。そんななか彼女は俯いた。あの時の繰り返しのようで、懐かしいような、それでいて初めて見たような姿だった。

「私たちレズビアンの人生はこんな儚いものなのかもしれないね。

 彼女の目から溢れた涙が太陽に反射して光りながら腕に当たった。温かかった。地上に零れれば、あの綺麗に輝く海の一部になるのだろう。

「外に行こうとしても自由になれず、それでも脆くても美しいなら、それでもいいのかな?」

 泣き崩れようとする彼女の体を抱きしめた。体が黙っていられなかった。

 彼女はこうして助けてくれた。自由を教えてくれて、縛りから解放してくれた。

 だけど、私は彼女の死への考えに反対だ。

「儚くなんかないよ」

 このまま終わってしまうなんてもったいない。

 私は光の粒子になってくずれていく足元に力を込めた。

「この世界で、まだもう少し一緒にいよう」

 私の意に従うように、視界が反転した。そして私たちの身体は海に向かって落下した。綺麗な島に向けて私たちの身体は戻るように落ちたのだった。

「すごく楽しかった。儚くなんてないよ。今もそうでしょ。私たちの人生は楽しかったんだよ。閉ざされていても、だからこそ」

 逆さまになった視界の先には大地の遺産が残っている。それは島の外もそうだった。美しく光っている。

「こんなに綺麗に見える。だから、もう少し二人でこの美しい世界を旅するの」

 そうして彼女の顔を見ると、私の体は軽くなって、どこまでも自由に動けるようになった気がした。

 私は地縛霊から解放されたのだと悟った。

 勢いよく落下した体は速度を失い、終にさらさらと気持ちの良い砂浜に足がついた。

 私は朝日にきらきらと輝いた目の前の少女の顔を見つめた。

「そうね」

 私の人生に後悔などありもしなかった。成仏しようとしていた私たちの体は元の幽霊の形を取り戻していた。

「これでもう来年のお盆まで成仏できそうにないわね」

 彼女は麦わら帽子を押さえながらにっこり笑った。

「そうね」

 そうして、思いっきり笑いながら、私たちは成仏するまで外の世界を歩き回ろうと思った。

 こうして私は外の世界で、この奄美大島が天国に一番近い海と呼ばれていることを知った。

 だけど私は、この地球が天国よりも美しい場所だと強く思い始めいてた。
 


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