第828話 『ポルトガルの戦略と反乱の狼煙』
慶長元年五月十七日(1596/6/12) リスボン
「さて、宰相。この状況をどう見る?」
セバスティアン1世は大西洋の地図を見ながら、宰相のクリストヴァン・デ・モウラに質問していた。
ヨーロッパからアメリカ大陸にかけての地図だ。5月の中旬に届いたブラジル総督のフランシスコ・デ・ソウザからの書簡が横に広げられている。
クリストヴァンは深く息を吸い、地図上の各地点を指で追いながら答える。
「陛下、肥前国王は以前より交易を主として争いを好まず、共存共栄を図ってきました。しかしながらスペインに対しては、いまだ終戦とはなっておりません。今回の肥前国のアメリカ大陸への進出は、それを意図したものではないかと思われます」
一瞬の沈黙の後、セバスティアンはクリストヴァンを見てその真意を確認する。
「スペインと、さらに一戦交えて決着をつけると?」
クリストヴァンは深くうなずく。セバスティアンの洞察力に感心しつつ、さらに詳しく説明を加える。
「仰せのとおりでございます。肥前国はスペインとの決着をつけようとしていますが、それは単なる軍事衝突ではありません。より高度な戦略を用いていると思われます」
「ほう、いかなる戦略であろうか」
クリストヴァンは地図上のアメリカ大陸を指さしながら説明を続けた。
「肥前国は、スペインの生命線とも言えるアメリカ大陸での銀の流れを断とうとしているのではないでしょうか。特にペルーの銀山が目的かと思われます」
セバスティアンの表情が厳しくなる。
スペインの財政基盤を揺るがす戦略は、ヨーロッパの勢力図を大きく変える可能性があるのだ。
冷静に考えれば、世界の経済力・軍事力・技術力、どれをとっても肥前国が群を抜いている。それに追随するポルトガルであるが、すでにスペインに匹敵もしくは上回る国力を保持していると言えるだろう。
スペインの凋落ちょうらくは喜ばしいが、それはすなわちイギリスやオランダ、フランスなどの国の台頭を意味するのだ。
世界第2位ならば2位なりの戦略をとり、新興国の台頭を許すべきではない。
現在イギリス・フランス・オランダともに良好な関係を築いている。しかしそれは自国の権益が保たれていてこそだ。スペインの富が3国のどれかに流れ込み、ポルトガルの隆盛を脅かす事態になってはならない。
「なるほど。銀の流れを断てば、スペインは自然に弱体化する。しかし、我がポルトガルにとってはどうなのだ?」
「陛下、これは我々にとって両刃の剣となり得ます。確かにスペインの弱体化は我々の自由度を高めるでしょう。しかし同時にヨーロッパの国々、とくにイギリス・ネーデルランド・フランスの影響力が増大する可能性も意味します」
クリストヴァンの分析は的確であり、ヨーロッパの勢力図の変化が及ぼす影響を鋭く捉えていた。宮殿に緊張感が漂う中、セバスティアンは静かに口を開く。
「確かにそのとおりだ。我々は肥前国との同盟関係を維持しつつ、ヨーロッパ諸国との均衡も保たねばならない」
ポルトガルの立場は微妙であり、綿密な外交戦略が必要だ。
「では、我々の立場はどうすべきだろうか?」
「陛下、ただいまスペインの使者がお越しになりました」
「なに? スペインとな?」
スペインとは戦争状態にあるわけではなく、国交は冷え込んでいたが、断交しているわけではない。
しかしこの微妙な時期に、使者とは何事だろうか?
セバスティアンの脳裏に不安がよぎる。
「……よし、お通しせよ」
「はっ。それともう1件」
「……なんだ?」
「ネーデルランドのマウリッツ総督からの御使者もお越しです」
「? ……よし、分かった。少しだけお待ちいただくのだ。スペインの御使者殿から会おう」
スペインを優先したのは、もちろん緊急度と優先度からであった。
いったいなんだ?
頭を抱えつつセバスティアンはスペインの使者を迎え入れたのである。
■諫早城
「千方ちかた、アステカとインカに送った密偵からの知らせはまだなのか?」
2月に送った密偵である。
まだ4か月しか経過していないのに、結果を求めるのは性急すぎるのだろうか。
「申し訳ありませぬ。いまだ知らせはございませぬ。然りながらあと一月知らせがなければ、次の密偵を送る手筈てはずとなっております。もとより遠き地にて言葉に習慣、文化も違いますゆえ、得心させるのに時を要しているかと存じます」
「ふむ、そうであるな。力攻めも能うが、激しくあらがうであろう。それにこのままいけば侵略者の誹そしりを受けるやもしれぬ。それゆえ、あくまでも独立の手助けでなくばならぬ。無論、本当に手助けではあるのだがな」
純正はそう言って、ふう、と息を吐いて手に持った扇子をたたいた。
「然りながら、『あすてか』も『いんか』の王の心をつかむのは容易ではありませぬ。スペインの支配下で数十年を過ごした彼らにとって、我々は未知の存在。信頼を得るには時間がかかるでしょう。とくに『あすてか』は国の体を成しておらず、国王は商人に身をやつしているそうです」
純正は千方の言葉に耳を傾けながら扇子を開いて顔を仰ぐ。初夏の蒸し暑さが、この微妙な戦略をさらに重く感じさせた。
「然もありなん。されどイスパニアの支配が長ければ長いほど、独立への渇望も強まるはずだ。腰を据えて待つといたそう」
■メキシコシティ
「それでもし、肥前国の王とやらが我らに加勢してくれるとしよう。その後はどうなのだ? 肥前国がスペインにとって変わらぬ保証はないだろう?」
クイトラワクは肥前国の密偵に問いかけた。
「万にひとつもない、とは言いません。言えば逆にお疑いになるでしょう。ですがわが王にはアステカに対する野心はありません。ただし独立を助けた後に、ともに栄えるに足りぬ、となれば第2のスペインになるかもしれません。ですから、ひとつ条件がございます」
「条件? ……なんだ?」
「アステカの民の宗教は尊重します。しかし、人身御供ひとみごくうは止めていただきたいと。どんな理由があっても、人の命を欲する神は許容できないと」
「……」
■ペルー ビルカバンバ
「陛下、どうしても私の申し上げることが信じられませんか?」
「……当然だ。余はこのインカの民を守る責任がある。どこの馬の骨ともわからぬ男の言葉を真に受けて、スペインに戦いを挑むなどできん」
トゥパク・アマルは肥前国の密偵に対して当然と言えば当然の返事を続けている。
密偵がはじめてインカに来てから3か月がたっていた。
「ではスペインにとって重要なカヤオやパナマを肥前国が襲撃したならば? その他に、アステカにも私と同じ使者を送っています。アステカの王がどうするかはわかりませんが、このままここにいてもジリ貧ではありませんか?」
アステカにも?
カヤオを襲撃?
アステカはすでに数十年前に滅んだと聞いているが、子孫がいるのか?
さまざまな疑問がトゥパク・アマルの脳裏によぎるが、ひとつの質問に集約された。
「その、お前が言う肥前国に何の利益があるんだ? ただで助けるなど、怪しすぎるではないか」
「そのとおりです。しかしスペインは肥前国にとっても敵なのです。敵の敵は味方にはなり得ませんか? それに、独立後は対等な立場で国交を結び、交易したいのです」
「ふむ……」
「すぐに返事がもらえるとは思っていません。もうあと1~2か月で、新たな使者がくるでしょう。詳細はその者からお聞きください」
少しずつではあったが、アステカ・インカ両国で反スペインの狼煙が上がろうとしていた。
次回予告 第829話 『慶長大地震』