第4話 『デン・ハーグと駐ネーデルランドポルトガル大使館』
天正十八年九月一日(1589/10/10) デン・ハーグ <フレデリック>
「これはこれは、ようこそおいで下さいました」
マヌエル・デ・ポルトゥガルはにこやかな顔でオレを出迎える。
オレは兄貴に頼んで、伝手を通じて会えたのだ。
ネーデルランドの首都であるデン・ハーグにはポルトガルの在外公館(大使館)がある。そこで大使として執務をしているのがマヌエル・デ・ポルトゥガルだ。
マヌエルはポルトガルのアヴィシュ王家の子孫で、マヌエル1世の曾孫にあたる。史実ではセバスティアン1世の死後、ポルトガル王位請求者として立候補した、ドン・アントニオの庶子だ。
それが今は外交官として28歳の若さで辣腕をふるっている。案内された大使の執務室には時計や地球儀、そして世界地図があった。
「いえいえとんでもない。こちらこそお時間を頂戴し、恐縮です」
オレは丁重に礼を述べた。
マヌエルは椅子に腰を下ろすと、オレをじっと見つめている。
そりゃそうだ。友好国であるネーデルランド(オランダ)総督の弟、しかも6歳の少年(オレ)が訪ねてきたんだからね。その意図はともかく、なんだ? と思うのが当然だろう。
「さて、どんな用件で私に会いたいと?」
マヌエルの声には明らかに好奇心が混じっている。オレは一瞬言葉に詰まったが、すぐに気を取り直した。
「マヌエル様、貴重なお時間を頂戴し、誠にありがとうございます。実は肥前国の事情を詳しくお伺いしたく参りました」
オレの言葉にマヌエルはニヤリと笑う。
「ははははは。他ならぬマウリッツ公の弟君なのだ。そうかしこまらなくてもよい」
オレは表情が引き締まる。
「なるほど。確かに肥前国の存在は重要な要素である。英明な陛下の治世において、ポルトガルの国力は飛躍的に伸びた。しかしこれは、肥前国の影響を考えずにはあり合えない……」
まじか……。
この世界のポルトガルの躍進もそうだが、それを支えた肥前国の存在って……。
信長や秀吉がそこまでの事をやったのか? 信長なら本能寺の変は起きてないし、だとすれば明や東南アジアに進出していてもおかしくはない。
秀吉の場合なら朝鮮出兵の前だ。
どっちにしても、その段階でスペインの無敵艦隊を負かすって異常事態だぞ。
それになんで日本国じゃなくて肥前国なんだろう?
疑問はその場で解決するのだオレのモットーだ。
オレはマヌエルの言葉に聞き入る。
「肥前国の影響とは、具体的にどうなんでしょうか」
「例えばこれを見たまえ」
マヌエルは机にあった細い木の棒を握ってオレに見せてきた。
! 鉛筆じゃないか!
え? 鉛筆ってこの時代にあったのか? ……いや、確か黒鉛に糸を巻いた簡単な筆記具は存在したはずだ。
でもこれは木の板で挟んである現代(前世)の鉛筆に近い。この状態の鉛筆が登場したのは19世紀だぞ。
「ふふふ。驚いたかい? 黒鉛に糸を巻いた簡易的な筆記具はあるが、こういう形状は珍しいからね。これは肥前国からの輸入品を、わが国の職人に模倣させて作った製品だよ」
マヌエルは笑いながら言った。
オレは驚きを隠せずにマヌエルの手にある鉛筆を凝視する。この時代に、こんな洗練された鉛筆が存在するなんて。
「肥前国からの輸入品ですか? 驚きです。他には何があるのでしょうか」
「ああそうだ、あれもそうだね」
ふとそう言ったマヌエルの指が差し示した先には、壁に掛かった時計と温度計がある。
「これは、もしかして……温度計、ですか? それからこの時計は……時間と分の他に……」
「ああ、秒針だね。私も初めて見たときは驚いたよ。時計は航海において正確な経度を知るのに必要だ。緯度には必要ないが、経度は基準地点が何時なのかわからないと算出できないからね。……おっとゴメン、難しかったかな?」
マヌエルはそうやってにこやかに笑った。
オレが考え込んでいたのは、もちろん理解不能だからじゃない。
実用的な秒針は17世紀の後半、水銀温度計は18世紀に入ってからだ。
洋上で使えるクロノメーターだって?
ジョン・ハリスンが精巧な時計をつくるのも、18世紀に入ってからだぞ。
……これらが存在する以上、技術史は少なくとも75年から120年は進んでいる。
あり得ない……。
オレは決して日本史や世界史が得意なわけじゃない。受験の知識レベルだ。ただ、技術史や産業史は大学で理工学部専攻だったから、多少はわかる。
……何が起きているんだ?
肥前国(日本)が信長か、もしくは秀吉の手によって外洋に進出したとしよう。それにポルトガルと友好関係を結んで技術開発を進めたとして、120年も先のレベルを達成できるのだろうか?
できるはずがない。
なにかもっとこう……超自然的な事が起きているに違いない、そうオレは結論づけた。
「マヌエル閣下、ポルトガルはいつから肥前国と交友を始めたのですか? また、肥前国の王の名前は何と言うのでしょうか」
オレが子供だからなのか、それとも生来の真面目な性格からだろうか、マヌエルはオレに面と向かって真剣に話し出す。
「まずはじめに、25~6年ほど前になるが、国王ではなく、肥前国のいち領主としての交易がはじまったのだ。その時の名前は……今は名前が変わっているが、確か沢森政忠とかいったはずだ」
! なんだって?
26年前? 沢森政忠? 誰だそれは?
26年前なら本能寺の変の……19年も前じゃないか! じゃあ信長が30歳?
桶狭間の戦いは20代後半だったと思うから、ざっくり考えたら美濃を攻めるか、攻め取った後か? いや、上洛の前後か? 尾張統一?
いーや、どうでもいい!
どっちにしたって海外に、しかもポルトガルに使節を送るなんてできるはずがない!
沢森政忠?
九州の戦国大名にそんなやついたか?
キリシタン大名で有名な大友宗麟や有馬晴信、大村純忠?
天正少年使節? いや、あれはもっと後だ。
龍造寺? 島津? 大友と九州を三分していたが、そんな話は聞いたことがない。
誰だ、沢森政忠……。
「11年ほど前からは肥前国王として名前も小佐々平九郎純正と変えて、年に1回使節を、いや留学生を送って来ていたね。近ごろは肥前国より学ぶことも多く、あちらからの留学生よりも、こちらから留学する学生が多いようだ」
11年前? 1578年か。本能寺の変の4年前……だとしたら信玄も死んで、浅井朝倉も滅んだころか?
それにしても、小佐々純正、誰だそいつは?
「閣下、つかぬことを伺いますが、その肥前国との交流のなかで、織田という言葉は出てきませんか?」
「……織田? いや、聞いたことがないな」
……やはり、日本史にとんでもない異変が起きている。
オレは時間が許す限りマヌエルに情報を聞き、現在の肥前国とポルトガル、母国(今世の)オランダの現状を整理した。
次回予告 第5話 『いまの肥前国とポルトガル、そしてネーデルランド』