第817話 『セバスティアン・ロドリゲス・セルメーニョの災難』
文禄四年九月二十五日(1595/10/28)
「煙突? 蒸気? 一体何を言っているのだ? 冗談ではない。そんな船があるはずがない」
スペインの使節は不思議そうな表情で艦橋を見回し、黒い煙を上げる煙突を指さした。事態を理解できず困惑している様子だったが、蒸気で動く船は、彼の知識の範囲を超えていたからである。
蒸気船の意味を理解できないようだ。
「ふん。仮にそんな技術があるとすれば、その技術はどこから? わが帝国にもそんな船はないぞ」
「では説明しましょう。これは蒸気機関と呼ばれるもので、石炭を燃やし水を沸騰させて生じる蒸気の力でこの船は動いています。だから煙突から煙が出ているのは火災ではありません」
近藤は丁寧に説明を加えたが、スペイン使節の顔には理解しがたいと言わんばかりの表情が浮かんでいた。16世紀のヨーロッパでは蒸気機関など想像もつかない技術だったからだ。
「……信じ難い。だが、もしそれが本当だとしたら、貴殿らの船は風や波に頼らず航海できるのか?」
使節は半信半疑ながらも、近藤の言葉にわずかながら興味を示した。
「そのとおりです。この船は風向きや潮の流れに関係なく航行できる。だからこそ我々はこうして遠く離れたこの海域まで来られたのです」
近藤は自信に満ちた口調で答えた。
スペイン使節は驚いた表情を浮かべ、言葉に詰まった。彼の世界観を覆す技術が目の前に存在しているのだ。しばらく沈黙した後、使節はゆっくりと口を開く。
「……理解した。貴殿らの技術力は我々の想像をはるかに超えているようだ。しかし、我々はスペイン国王陛下の命によりこの地をスペイン領と宣言した。貴殿らは速やかにこの海域から立ち去るべきだ」
「それはいつ、どこで、誰に対してですか? ……この地域はわが国の保護下にあります。先住民との友好的な関係を築き、彼らの同意を得て、この地に拠点を設けています」
近藤は使節の言葉を聞いて冷静に対応するが、スペイン使節は顔をしかめた。
「先住民との友好関係だと? わが国の利益に反する!」
使節は怒りを露わにし、肥前国の存在に驚きつつも先住民との関係に対して強い警戒を抱いていた。
「保護下や同意? たわ言を口にするな! 未開の蛮族に土地の所有権など認められるはずがない。この地はスペイン国王であるフェリペ2世陛下の正当な領土である。貴殿らは速やかに立ち去るべきだ!」
その言葉には帝国主義の傲慢さがにじみ、先住民の権利を一切顧みない姿勢が明白だった。
「先住民の権利を軽視する考えには賛同できません。我々は彼らと互恵的な関係を築き、この地の支配を確立しています。その現実を無視することは許されません」
近藤は使節の激しい言葉にも動じない。
その場の空気は一層張り詰め、近藤の声には冷ややかな鋭さが宿る。周囲の将兵たちも厳しい表情を浮かべ、緊張感が高まる中で使節団を静かに見据えていた。
「貴様! スペイン帝国の威光を侮辱する気か! この蛮族どもと手を組んで、我々に歯向かうとはいい度胸だ! 貴様らの愚行を許すわけにはいかない!」
使節は激怒し、テーブルを叩きつけんばかりの勢いで近藤をにらみつけた。唾が飛ぶほどの剣幕に、周囲の空気は凍りついたように冷え込んだ。
「侮辱しているのは貴殿の方だ。我々は貴殿らのような侵略者とは違う。先住民たちと協力し、この地をともに発展させていく。それが我々のやり方だ」
近藤は一歩も引かない。その冷静な態度は、使節の怒りをさらに煽るだけだった。
「正使どの、正使どの!」
使者の傍らにいた年長らしき人物が、袖を引っ張って正使らしき人物を制している。
「なんだね! ?」
「司令官の言葉をお忘れですか! ? 警戒は解いてはならないが、まずは会話を、友好的に話を進めよと。これでは戦闘になりますぞ! 彼らが肥前国の人間だとすれば、わが国とは戦争状態にあります。ならば即撃沈されてもおかしくはない。見てください。この砲を。わが探検隊がどう背伸びしても勝てるはずがありません」
副使は冷静に状況を把握している。
肥前国の艦艇は確かに古く、旧式の駆逐艦である。帆船を改造したお古だが、それでもセルメーニョの探険艦隊に比べれば、火力の差は一目瞭然である。
正使は副使の言葉に我に返り、怒りを抑えて冷静さを取り戻した。肥前国の艦隊を改めて観察し、その圧倒的な火力を認識したのだ。
「……ふう。……確かにそのとおりだ。我々の任務は探検と交渉だ。不用意な衝突は避けねばならない」
正使は態度を軟化させ、近藤に向き直った。
「失礼いたしました。我々の立場をご理解いただきたい。スペイン王国の名誉にかけて、この地域の権利を主張せざるを得ないのです」
近藤は相手の態度の変化を察し、柔和な表情で応じる。
「お互いの立場は理解できます。しかしこの地域の現状を無視はできません。我々と先住民との関係は、単なる征服ではなく、互いの利益を尊重した協力関係なのです」
「協力関係? それがいかなるものか、具体的にお聞かせ願えますか」
正使の声から攻撃的な調子が消え、代わって外交官らしい冷静さが戻っていた。
「我々は先住民から土地を奪うのではなく、彼らと共に暮らし、互いの文化を尊重しています。港や基地の建設も彼らとの合意の上で進めています」
近藤の説明に正使は驚きを隠せない。スペインの植民地政策とは異なる手法に関心を持ったのだ。
……しかしすぐに自国の立場を冷静に、にこやかに主張し始めた。
「貴殿の言葉は興味深いが、我々には神聖なる使命がある。1493年、教皇アレクサンデル6世が発布した『インテル・カエテラ』の勅書により、スペイン王国はこの新世界を征服し、キリスト教信仰を広める権利を与えられているのだ」
正使は声高らかに続ける。
「この勅書は、キリスト教徒が住んでいない土地はすべて『発見』され、征服される対象となると定めている。我々には、これらの地に文明を伝え、キリスト教化する神聖なる義務があるのだ」
「教皇の勅書が貴国にとって重要なのは理解します。しかし、その勅書はヨーロッパの一部の国々の間での取り決めに過ぎません。この地域の現実とは無関係です」
近藤は冷静に対応した。
主君である肥前国王、関白太政大臣小佐々平九郎純正の教えとは正反対であったからだ。純正はもちろんのこと、肥前国民全員が(それを知っている人たち)キリスト教の大義名分による侵略を容認していない。
「教皇の勅書など、この地には何の意味もない。ローマ教皇の権威は欧州内に留めておくべきではないか」
近藤の言葉に正使の表情が強張った。
宗教的権威への挑戦とも取れる発言に、カトリックの信徒として黙っているわけにはいかないのだ。
「不敬な。教皇陛下の権威を否定するとは。これは単なる領土問題ではない。異教徒である貴殿には理解できまい」
正使の態度が再び硬化する。宗教的な信念が外交官としての冷静さを上回ったのだ。
「できませんな。某は仏教徒だ。されど異教徒だからこそ、客観的に判断できる。貴殿らの信仰を否定するつもりはない。しかし、信仰を口実にした征服を正当化はできません」
「まあ、まあまあ……」
近藤の発言に副使が割って入った。正使の再度の感情的な反応を懸念したのだ。
「お互いの信仰や価値観の違いは脇に置き、現実的な解決策を探るべきではないでしょうか」
「解決策とは?」
副使の提案に、場の空気が少し和らいだ。近藤も同意し、話題を具体的な境界画定の問題へと移していく。
「……この地域での境界線について、話し合いを始めませんか」
「できませんな」
「なっ!」
近藤の言葉に2人とも硬直した。
「勘違いしないでいただきたい。不可能だと言っているのではない。貴国とわが国は戦争状態にある。幸いにして今回は戦闘にはいたらなかったが、本来なら砲撃戦になってもおかしくないのだ。国同士で戦っているのに、国境もなにもないでしょう」
確かに。
セルメーニョは事の一部始終を報告するしかなかったのだ。
-発 アンカレジ警備府第五○一探検隊司令 宛 小樽鎮守府
アラスカ南部の新たに発見、入植せしオレゴンにてイスパニア探検隊と遭いけり。
幸いに打ち合い(戦闘)にはならねども、この地を境にとの話合いとなりけり(国境を定めたいとの議論になった)。
然れどもイスパニアとは戦の最中にて、同ぜざりけり(同意できなかった)。対応を請いたし。-
次回予告 第818話 『内政と外交』
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