第827話 『憔悴のフェリペ2世』

 慶長元年四月二十日(1596/5/17) スペイン マドリード

 フェリペ2世は疲れきっていた。

「陛下、この上はバンカロータ(破産宣告)するしか方法がありません」

 フェリペは重々しくうなずく。

「わかった。だが、これが最後にしたい。我が治世で4度目のバンカロータとなるのだ」

 首席秘書官のマテオ・バスケスは慎重に言葉を選ぶ。

「陛下、確かに厳しい決断です。しかし、フロリダ割譲にもかかわらずイギリスとの関係は改善したとは言えません。しばらくは沈静化していましたが、最近再び通商破壊活動が確認されています。アメリカ大陸との交易維持はわが国の経済にとって死活的に重要ですが、その航路さえ脅かされています」

「イギリスめ。講和を結んだにもかかわらず、まだわが国の船を襲うとは」

「申し訳ございません。イギリス政府は公式には関与を否定しておりますが、エセックス伯らの貴族が私掠しりゃく船を後押ししているとの情報もございます」

 マテオは頭を下げるが、フェリペは顔をしかめる。

「そなたのせいではない。まったく、オランダの反乱も収まらぬのに。わが国の財政はもはや限界だ」

 オランダの事実上の独立状態、つまり周辺諸国も実質認めている状態を、フェリペはここにいたっても認めていなかった。

 マテオは静かに話し始める。

「陛下、バンカロータにつきまして、今回は約700万ドゥカートの債務を再編成しようかと考えています。その大部分を5%の長期債券に転換する案を準備いたしました」

「ふむ」

 フェリペはあごに手をやる。

「それで十分なのか?」

「はい。これにより、当面の危機は回避できると考えております。しかし、根本的な解決には至りません」

「わかった。だが、これを機に財政の立て直しを図れ。我々は新たな戦略を練り直さねばならん。イギリスとの対立、オランダの反乱。そしてフィリピナスでの影響力の喪失。すべてがわが国の繁栄を脅かしているのだ」

 フェリペは椅子に深く腰掛けた。

「陛下、先々月にインディアス(新大陸)のヌエバエスパーニャ副王より届いた書簡でございますが……」

 肥前国艦隊がカリフォルニアの北のオレゴンに要塞を築き、根拠地としているとの報告である。

「ごほっがほっ……。ああ、その件であるな」

「陛下、大丈夫ですか」

「……案ずるな。ごほっ……」

 日の沈まぬ帝国は存在しないどころか、フェリペの体は病に冒されていたのだ。

 マテオは心配そうに王を見つめる。

「陛下、お体を大切になさってください」

「問題ない。それよりも肥前国の件だ。我らの領土に侵入してくるとは、何たる無礼か」

 フェリペは咳せきを抑えながらかすれた声で言うが、マテオはその容態といまスペインが直面している状況を重ね合わせた。皇太子は病弱で先行きが不安である。

 この偉大な王が築こうとしてきた王国の未来に暗雲が垂れ込んでいるのだ。

「はい、仰せのとおりにございます。ガスパール・デ・スニガ副王閣下は早急な対応を求めております」

 フェリペは顔を上げ、厳しい表情で言う。

「インディアスでの我らの権益を脅かすなど、許せん。艦隊を派遣し、肥前国の要塞をたたけ」




「……」

 マテオは困惑した様子で答える。

「しかし陛下、現状では艦隊の派遣は困難かと……」

 この王をもってしても、冷静に状況が見えないのだろうか。それともできなくなったのか。

 すでに肥前国は25年前にマニラにおいてスペインの侵攻部隊を破り、18年前には30隻以上の艦隊を殲滅せんめつしているのだ。

 その後ヌエバエスパーニャ艦隊は大西洋と地中海防衛のために回航され、ほとんど残っていない。ペルーの状況は多少マシではあるが、それでも肥前国と相対するには圧倒的な兵力不足である。

 フェリペは苛いら立ちを隠せない。

「なぜだ?」

「陛下、フィリピナス諸島での2度にわたる敗北はご存じでしょう? その後の増援要請を断り、アルマダの敗戦以降わが国の艦隊は、大西洋と地中海の防衛に集中せざるを得ません。インディアスまで大規模な艦隊を送る余力がないのです」

「ならば現地の兵力で対応せよ。副王に命じ、肥前国の要塞を攻撃させるのだ」 

「陛下、それは危険かと。肥前国の海軍力は我々の予想をはるかに上回ります。現地の兵力では太刀打ちできません」

 フェリペは断言するが、マテオは恐る恐る進言した。マイナスの報告をいくつも受けてきたのだろう。状況認識はフェリペより上であった。

「では、どうすれば良いのだ?」

 フェリペは深く息をはいてマテオの返事を待った。

「陛下、屈辱的ではございますが、ポルトガルに仲介を依頼するのが最も現実的かと存じます」

 一瞬にしてフェリペの顔が険しくなる。

「ポルトガルだと? セバスティアンの小僧に頭を下げねばならんのか?」

「陛下、セバスティアン1世は肥前国と同盟を結び、20年以上の交易によって国は栄えています。軍事力もわが国にひけをとらないほどかと」

 マテオは冷静に事実を列挙した。

 ……引けを取らないとは言ったが、実際は上回っている。

 その事実を理解していたのだ。

「異教徒と同盟する裏切り者め!」

 フェリペが拳を振り上げるが、激しい咳に襲われる。絹布に血痰たんがにじんだ。

「陛下!」

 マテオが駆け寄ろうとするが、フェリペは手をあげてそれを制した。

「心配ない。……あれは、16年前であったか。セバスティアンが婚約破棄を申し出てきたときは、我らはあざ笑ったではないか。スペイン王国との婚約を破談にするとは、と。……いまさら頼むなど、できるはずがない」

 額に浮かぶ脂汗がフェリペの衰弱を物語っていたが、マテオは地図帳を広げて説明を続ける。

「肥前国は既に、オレゴンから北の地を制圧しております。現在のヌエバエスパーニャ・ペルー両副王領の兵力をもってしても、駆逐するのは難しいでしょう」

 フェリペの表情が曇る。

「ならば新大陸との交易は……」

「陛下、太平洋側での交易は、そもそもフィリピナスから撤退しておりますので影響は皆無です。大西洋航路を通じた中米との交易はイギリスやネーデルランドの私掠船による被害が懸念されます」

 フェリペはあごに手をやる。

 軍事・外交・内政すべてにおいて順風満帆ではない。むしろ悪くなっているのか? いったいなぜこうなった?

 私が即位したときにもバンカロータはあった。すでに3回実施している。

 しかしその後10年は、財政的に厳しいとはいってもなんとかやってこれた。ネーデルランドで蜂起があり、鎮圧に振り回されはじめてから、それ以降か?

 肥前国との戦いに敗れたのが71年であるし、ポルトガルはそれより前から肥前国と交友があったようだが……。もはや遅きに失したかもしれんが、やはり講和を結ぶしかないのだろうか。

 現実をみて肥前国との和平を考え、一方ではカトリックの守護者としての立場が頭を占める。しかしもはや、フランスでの情勢やオランダの事実上の独立など、守護者の力は衰える一方であった。




「そうか。では我々の主な問題は依然としてイギリスとネーデルランドであるな」

 フェリペは机の上の地図を指でなぞる。
 
「イギリスとネーデルランド……これら反逆者どもがわが国の血を吸っている」

 マテオは慎重に資料を提示する。
 
「1588年のアルマダ海戦以降、イギリス海軍は急速に拡大しております。現在、大西洋の制海権は……」

「わかっている!」
 
 フェリペが書類を叩きつける。

 インク壺が倒れ、羊皮紙が黒く染まった。イギリス海軍の増強はすなわち大西洋の覇権を危うくする。その証拠に私掠船が横行し、看過できない状況であった。

「陛下、失礼ながら事実を申し上げます」

 マテオは冷静に続ける。
 
「ネーデルランドの反乱軍は、英仏で結ばれていた同盟(三国同盟)に参画しました。これにより、イギリスとフランスの両国がネーデルランドの主権を認めた事になります」

 フェリペの頬ほおがピクピクと動く。

「神よ、なぜ我々にこのような試練をお与えになるのですか」

「陛下、フランスのアンリ4世が90年に布告したナントの勅令の影響も無視できません。プロテスタント諸国が結束を強めております」

 突然、玉座の間の扉が開いた。侍従が青ざめた顔で駆け込んできたのだ。

「急報! サントドミンゴ港を出航した船がイギリス私掠船に襲撃されました!」

 マテオが報告書を素早く確認する。
 
「積荷の銀16トン、香料3船分が奪取され……乗員32名が戦死」

 フェリペの手が震える。1571年のレパント海戦での栄光が脳裏を過ぎった。あの時はオスマン艦隊を撃破し、キリスト教世界の英雄と呼ばれたのに。

「陛下、ご決断を」

 マテオの声で現実に戻る。

「わかった」

 フェリペはゆっくり立ち上がり、続けた。




「ポルトガルとの会見を調整せよ。ただし条件は厳守する。第一に……」

 マドリードの街を赤く染める日差しが、玉座の間の紋章を照らしていた。




 次回予告 第828話 『新世界と旧世界』

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