【津久井やまゆり園事件】障害者に対する差別的な事件を振り返ったお話
津久井やまゆり園事件ってご存じでしょうか。
久しぶりに聞いて思い出した人もいれば、それって何?と思う人もいるかもしれません。
私も正直、この事件は忘れていました。
兄の施設生活について書こうと考えていた際、書く上では「津久井やまゆり園事件」は避けて通れないなと感じて今回書こうと思いました。
津久井やまゆり園事件の概要
当時の私の思い
この事件当時高校生だった私は、衝撃と共に社会に対して悲しさや恐怖を感じました。
今の社会にこんなにも大量な殺人事件が起きることに衝撃も受けましたが、その理由や元職員だったことに悲しさを覚えたのです。
特に衝撃的だったのが、「意思疎通が取れない人間は安楽死させるべきだ」という発言でした。
こんな思いを持っている人がいること、そしてこのような人が施設で働いていたこと何もかもがあり得ないそんな気持ちでした。
さらに、このような考えに共感する人がネットなどで話題になりました。
自分自身として全くあり得ないと思っていた事件であり考えだと思っていたことが、共感する人が他にもいることにも衝撃を受けました。
このようにこの事件1つに対して、衝撃を受けそして悲しさや恐怖など様々なマイナスな感情を抱きました。
きょうだい児の思い
さて、改めてこの事件を振り返るときょうだい児として一番は恐怖という感情が湧いてきました。
この事件を起こした植松受刑者と同じような考えを持つ人々が社会には少なからずいるということが明らかになったからです。
もちろん、同じ考えを持っていてもそれを行動に起こすか否かは別だとは思います。
ただ、こういった考えを持っていること時代が事件を生み出す可能性があるとも言えるため少なからず恐怖という感情があります。
そんな中、今日も兄は施設で生活をしているのです。
兄だけでなく多くの障害者が施設で生活をしています。
このような事件が起こると怖いからといって、自宅で面倒を見ることや1人暮らしをすることは現実的には難しいためです。
そのため、家族はただただ施設が安全に運営されているか見守ることしかできません。
そもそもですが、(重度障害者が)不幸の元である確信を持つことができた」「意思疎通が取れない人間は安楽死させるべきだ」などという思いはなぜ起こるのでしょうか。
考えても到底私たちには理解ができません。
私たちは意思疎通をするためだけに生きているのでしょうか。
もちろん意思疎通が滞りなくできた方が生活しやすいことは私も実感しております。
ただ、意思疎通に問題があったとしても、その人が嬉しそうな時・悲しそうな時その感情は私たちにも伝わり共感することができます。
意思疎通ができなくても、毎日生活をしているのです。
他人の人生を人に安楽死するべきと決めつけられる権限はどこにもありません。
勝手な思い込みにより、障害者を危険な目に合わせることあ差別やいじめの対象にすることは絶対にあってはならないのです。
最後に
この事件は、障害者に対する誤った考え方を社会に主張した悲惨な事件だったと思います。
しかし、残念なことにこの誤った考えに共感する人々もいることが明らかになりました。
このような考えを持つように至った理由などはわかりませんが、決して正しい考えではありません。
障害の有無に関わらず、1人の人として尊敬し誰もが共存できる社会になることをいちきょうだい児として願っています。